雨上がり、幸せの色
空は薄墨を流したような色だった。空と海の境には厚い雲が浮かんでいる。
慶次は雑賀崎の沿岸に座り、釣り糸を垂らしていた。朝早くからここに来て、午前中いっぱい釣りをして過ごす。それが慶次の最近の習慣となっていた。
特に釣りが好きというわけではなかった。しかし海と畑と果樹園、そして射撃場しかない雑賀崎で暇をつぶすと言ったら、釣りか海水浴か射撃しかやることがない。慶次は釣りよりも、射撃場を使わせてもらい鉄砲を撃つほうがずっと好きだったが、午前中は雑賀衆たちの修練の場となっており、居候がいては邪魔になる。
だから慶次は、こうして釣りをしながら皆の修練が終わるのを待っていた。
「どうやら今日は射撃できそうにないねえ」
空を仰いで、慶次は呟いた。
まだ昼にもなっていないというのに空は夕方のように暗くなり、雲は重苦しくのしかかってくるようだった。
おそらく半時もしないうちに、雨が降ってくるだろう。慶次は釣り道具を片付け、海を望むように建っている山城、雑賀崎城に向かって走りはじめた。
慶次がこの雑賀崎にやって来たのは四月の初め。それから二月近く、雑賀崎城に詰める雑賀衆たちの厄介になっていた。雑賀崎城は孫市の父が築城した雑賀城とは別の城で、孫市自身が築いたものだ。
俺の城に来てみないか、という誘いの文をもらったのは三月のこと。慶次は、京でのんきに暮らしていたところだったのだが、連日のように催される茶会や連歌会に出席するのも飽き始めていて、これぞ渡りに船とばかりに孫市の誘いに乗ったのだった。
だが肝心の孫市は、雑賀崎城にいなかった。
もともと政宗と行動していることの多い孫市は、故郷の雑賀に帰ることは少なかった。久しぶりに帰郷できる暇ができて雑賀に戻ってくる予定だったところに、政宗の領土で紛争が起き、孫市は急遽、その収拾に向かわなければならなくなった。
「終わり次第、雑賀に帰るから待っていてくれ」
という文が届いたのは、慶次が雑賀に着いてまもなくのこと。それから慶次は孫市の帰りを待ち続けていた。
「うわぁー、やっぱり降られちまったか!」
もうすぐ雑賀崎城に着くというときに、運悪く雨が降り始めた。雨はまるで夕立のように、強く激しい。
慶次は額の上に手をかざし、顔にかかる雨を避けながら、城門に駆け込んだ。
城門には、射撃場から戻って来た雑賀の男たちが詰めかけ、先を争うようにして城郭の麓に点在しているそれぞれの家へと戻っていた。
その男たちの中に、見知った顔がいくつもあった。そのうちの一人が慶次に気づいて手を振った。
「前田様! 今日の射撃は諦めたほうがよさそうですよ」
「そうだねえ。この空模様では午後も雨は止みそうにないねえ」
笑って、慶次も手を振り返し、下館へと急いだ。
下館と呼ばれる居館は、城郭の西側にあって、孫市が雑賀にいるときの住まいになっていた。孫市の他には孫市の側近や城代が住んでいて、慶次もここの一室で寝泊まりしている。
下館にたどり着いた慶次は、縁側のそばにある物干し竿に濡れた小袖をぶら下げてから、身体を拭き、長着に着替えた。
蒸れるのが嫌で褌は締めなかった。
雨はますます激しさを増した。縁側から見える庭が、降りしきる雨で白々としている。
慶次は、手拭いで髪を拭きながら、雨に打たれて震える庭先の紫陽花を見ていた。
(そろそろ京に戻ろうかねえ・・・)
紫陽花を見ていた慶次は、ふいに思った。
ここに来たときは、桜の花が咲いていたというのに、今は紫陽花が咲いている。ずいぶんと長い間、雑賀に留まっていたのだなぁ、としみじみ実感したのだ。
もともと慶次は風来癖のある男。一所に留まるというのが苦手だった。にもかかわらず、いつ帰るとも分からない男のために、こうして待ち続けている。自分でも驚きだった。
(これほど長く孫市を待ち続けられのは、孫市に惚れているっていう証拠なんだろうねえ)
慶次は心中で呟きながら、京に戻ろうなんて思ってみても、実際には戻れないことを自覚していた。やっぱり孫市に会いたいのだ。
孫市とは、上田城で顔見知りになって以来、会津や京などで逢瀬を重ね、今は恋仲といえる関係になっている。
孫市のことを考えながら、ぼんやり庭を見ていると、
「失礼します」
と襖の向こうで声がして、この館で下働きをしている少年が入ってきた。
徳利と猪口を乗せた盆を持っている。それを慶次の側に置いた。
「前田様、お酒を持って参りました。雨で冷えた身体が温まりますよ」
「こんな昼間から、酒なんていいのかい?」
慶次は、こんなことをしてこの少年が叱られないか心配になった。
「いいんですよ」
少年は笑った。
「この雨では外出もできませんからね。城内に詰めている皆も、きっとすぐに暇を持てあまして、酒盛りをはじめます」
「そうかい? では遠慮なく頂くぜ」
慶次は、彼の気遣いを嬉しく思いながら礼を言い、胡座をかいて酒を飲み始めた。
「雨が降りそそぎ白んで見える庭もなかなかいいもんだねえ。風流だ」
慶次は良い気分になって呟いた。少年が笑った。
「前田様にかかるとなんでも風流になっちゃいますね。みんな、一日一回は前田様が何かを見て風流だと呟くのを聞く、と言って笑ってましたよ」
「俺はそんなに風流、風流と言っているかねえ?」
「ええ、おっしゃってますよ。でも俺は嬉しいです。だって前田様は、この雑賀の景色に心動かされることがそれだけ多いってことですからね」
「確かに、そうだねえ」
にこにこと笑う少年に慶次は頷いた。
実際、慶次はこの雑賀が気に入っている。風景は美しいし、何と言っても天から降り注ぐ光の色が他の土地とは違う。だから朝も昼も夕方も、晴れでも雨でもそれぞれに趣がある光景に見えるのだ。
「では、前田様、失礼します。夕方になったら食事をお持ちしますね」
少年は丁寧に一礼し、退出した。
話し相手がいなくなると部屋は静まりかえり、そのせいで雨音がいっそう強くなったように感じられた。屋根をたたきつけるザァーザァーという音が不断に続いている。
その後も、雨は激しくなった。
徳利が空になる頃には、ついに風まで吹き始め、横殴りになった雨が部屋の中にまで吹き付けた。慶次は仕方なく雨戸を閉めることにした。
(このぶんじゃあ、今日も孫市は帰ってこないだろうねえ)
慶次は諦めのため息を吐いた。
雨戸を閉めた部屋は、夜のように暗かった。行灯に火を入れ、慶次はふて腐れた気分で畳に寝ころんだ。
慶次が目を覚ましたとき、すでに雨音はしなくなっていた。
ポタポタと軒からしずくが落ちる音は聞こえる。雨は、霧雨になったようであった。
(俺ぁ、知らぬ間に寝ちまっていたようだねえ)
慶次は大きく伸びをし、雨戸を開けようと起きあがった。
油がなくなってしまったのだろう。すでに行灯は消えていて、何も見えない。慶次は手探りで窓辺に近づいた。
数歩あるいたところで、ふいに人の気配を感じた。
誰何するまえに、腕を掴まれ、強い力にグイッと引き寄せられた。
「待っていてくれたんだな」
耳もとで声がした。甘く響く男の声。
瞬間、慶次の躰が歓喜に震えた。
慶次は、いまだ黒い塊にしか見えない影を抱きしめた。
衣類は身につけていないのか、抱きしめた腕に肌の感触を直に感じた。
無駄ひとつないピンと張ったしなやかな筋肉、細い腰、幅の広い肩。ひとつひとつ確かめるように触れて行く。
濡れた髪からは、雨水と火薬の匂いにまじって、孫市の香りがした。
「いつ戻って来たんだい?」
「ほんの四半刻まえ」
孫市は答えながら、慶次に接吻し、押し倒した。
熱い吐息が慶次の首筋に吹きかかり、硬い膨らみが腿に押し当てられる。
「まさか、もう盛っているのかい?」
戸惑う慶次に、ああ、とだけ返事が返ってきた。
孫市の手が長着の裾を割って入り込んできた。手は膝から腿に向かって這い上がり、股間に行き着いた。手のひらに包まれ、ギュッと握られる。
「ちょ、あっ・・・孫市っ」
不埒な手に抗議の声を上げたつもりが、出たのは鼻にかかったような甘い声。
孫市の笑った気配がした。
「褌もつけずに俺を待っていたのか。嬉しいねえ」
「俺はそういうつもりじゃ・・・」
孫市の指で亀頭を擦られ、慶次の言い訳は途切れた。
巧みな愛撫に慶次の陰茎はたちまち勃ち上がる。早くも先走りの液が先端から溢れてきて、陰茎に沿って流れ落ちた。
慶次の先走りで濡れた孫市の手が、臀部を這い回り、鷲づかみされた。感触を確かめるように何度か尻の肉を揉まれたあと、腰を抱きかかえられた。
「ああ、この抱き心地、この感触・・・もうたまらねえ。女性の柔らかい尻より、男のお前の尻に欲情しちまうなんてな。今でも俺は、自分の変わりようが信じられないぜ」
信じられないのは慶次も同じだった。
京の貸座敷で孫市と酒を酌み交わしているとき、孫市に初めて尻を触られた。女人に目がない孫市が、男の自分の尻に触れるなど思いもよらず、それはもう驚愕した。
最初はふざけているのかと思った。
だが、孫市は肌に触れるのを止めようとせず、接吻され、愛撫され、気づいたときには身ぐるみをはがされていた。
もともと孫市は憎からず思っていた相手。同衾したからといって孕むわけでなし、一度くらいならいいか、という気持ちで受け入れたのだが。
その日を境にして、孫市は明らかに変わった。まず、本気で女人を口説かなくなった。
ともに傾城屋に行ったときも同様で、遊女を喜ばせるために美辞麗句を並べるものの、手出しはせず、布団がのべてある部屋にも入ろうとしなかった。そうなると、自分だけ遊女と寝るのが後ろめたく感じられて、自然と慶次も女人と床をともにしなくなった。
孫市との関係は、今も続いている。やがて慶次の心の中にも孫市への愛情が芽生えはじめ、孫市を愛しく思うようになった。
しかし慶次は、孫市と自分の関係が長続きするとは思っていない。
今は男である自分を愛してくれているとはいえ、人間の本質はそう変わらないものだ。いわば、今の孫市の状態は長い夢の中にいるようなもので、夢から覚めたら、また女人好きの男に戻る。そう思えた。
慶次は、それならそれで良いと思っている。夢の中のひととき、孫市と楽しむ。そういう刹那的な関係も、また面白い。
「血なまぐさい戦が終わったあと、俺は慶次の躯が猛烈に欲しくなる。政宗に鎮圧するよう任された紛争は、ただの小競り合いっていう規模じゃなかった。俺は多くの兵を殺した」
孫市は言って、掴んだ慶次の腿を左右に押し割り、陰嚢を舐めた。
「はぁあ・・・クッ・・・孫市っ」
濡れた孫市の舌が、陰嚢から会陰の間を走る感触に、慶次はたまらず快楽の声を漏らした。
舌はついに肛門へと行き着き、何度もねぶられる。
いつのまにかうつぶせ寝にさせられ、慶次は背後から腰を抱かれた。孫市の躰が脚の間に滑り込んできて、硬く熱いものが肛門にあてがわれたのを感じたとたん、一気に貫かれた。
「あぁぁぁあ・・・」
慶次は、脱がされた長着をすがるように掴んだ。
躰がガクガクと震えるほどの激しい抽挿が繰り返される。孫市の先走りが肛内を濡らしているのだろう。それが水音のようなクチュクチュという音を立てていた。
「孫市・・・あんた・・・酷いぜ」
上がる息の合間に、慶次は訴えた。
「俺はまだ、ここに帰ってきた・・・あんたの顔を・・・一度も・・・あぁっ・・・見ていないんだ」
せめて雨戸を開け、互いの姿が見えるようになるまで待てなかったのか、と慶次は思う。相手の姿が見えない同衾を慶次は嫌っている。
「悪かったな」
小声で謝った孫市は、中に挿入したまま慶次の腰を掴み、躰をずるずると窓辺まで引きずっていった。そしてもどかしそうに雨戸を開け放った。
雨の匂いが混じった冷気が、光とともに部屋に入ってきた。雨は止み、西に傾きかけた日の光が目に眩しかった。
その日差しを眩しげに見ていた孫市が、こちらを向き直った。孫市の眼が大きく見開かれた。 半ば、唖然とした顔で凝視された。
「どうしたんだい?」
不思議に思い、慶次はうつ伏せ寝のまま、声をかけた。
「・・・俺は、とくに信仰深い男でもねえし、もちろん神の姿なんて見たこともないんだが、お前を見ていると、古代の伝説の神々は、きっとお前みたいな姿をしていたんじゃないかと思うことがあるぜ」
慶次は予期せぬことを言われて、ぽかんとなった。が、次の瞬間、ふきだしてしまった。
「それは、褒め言葉として受け取っていいのかい?」
頷いた孫市の顔が、心なしか赤くなったように見えた。
思えば、孫市に容姿を褒められるのは初めてだった。女人を見れば、すらすらと巧みな賛辞がついて出る孫市も、慶次の前では言葉がなくなった。
「あんたが、俺の裸身を見て、そんなことを言うとはね」
笑う慶次に、孫市は複雑な顔を向けた。
孫市自身も、女性的な美などみじんもない男の裸体を見て、賞賛を口にしている自分にとまどいを感じていることを、その孫市の表情から慶次は読んだ。
「あんただって、いい男ぶりになったぜ」
少しからかう口調で慶次は言ったが、それは本心だった。
事実、しばらくぶりに再開した孫市は、以前よりも胸板が厚くなり、たくましい体つきになった。顔つきも精悍さが増し、眼に男の色気が漂っている。戦がまた、孫市を大きくしたようだった。
「何、言ってるんだよ。もともと俺は色男だろ?」
当然だと言いたげに、孫市は胸を張った。慶次はまた笑ってしまう。相変わらずの自信家だが、慶次はそんな孫市が面白くてしかたない。
「お前は知らないが、この雑賀では俺が歩いているだけで、女性たちが皆、俺に釘付けになるんだぜ。恋仲だった女性もいるしな」
得意げな顔の孫市を、慶次はへえ、と見た。
そう言えば、まだ孫市が政宗と行動を共にするようになる以前、孫市は多いときで5,6人の女人と同時につきあっていて、毎夜、代わる代わる彼女たちの家を訪れていたと、孫市の弟から聞いたことがあった。
雑賀の女人にもてているというのは、本当なのだろう。
「なんだ? へえ、だけかよ。嫉妬しないのか?」
眉をひそめた孫市を見て、慶次はまた大笑いしてしまった。
「嫉妬して欲しいのかい?」
「そりゃ、そんな平然とした顔をされるより、少しは動揺して欲しいね。そういうもんだろ、普通」
慶次はニヤニヤ笑いのまま、孫市を見た。
「孫市は、今もこの雑賀につきあっている女人がいるのかい?」
「・・・それは、えっと・・・いないぜ」
少し口ごもりながら、孫市が言った。慶次は頷いた。
「だったら、なんで俺が悋気する必要がある? あいにく俺は、過去は過去と割り切るたちでね。慕う相手から、昔つきあっていた人の話を聞いても嫉妬したことはねえぜ」
「なんともお前らしいな」
分かったような言い方だったが、孫市の顔には不満の色が浮かんでいる。慶次はにやりと笑い、足をひょいと上げて、かかとでつんと孫市の臀部をつついた。
「俺は過去にこだわらないとは言ったが、これからも悋気を起こさないとは言っていないぜ」
「・・・って、ことは、今後、女性にモテモテの俺を見て、お前が焼き餅をやくかもしれないと言うことか?」
自信を取り戻した顔になった孫市に、慶次は頷いた。
「孫市は、日本一の色男なんだろ。あんたの魅力で俺を虜にするくらい、造作もないことじゃないのかい?」
慶次が挑発するように笑うと、孫市の眼に欲情の炎が灯った。
慶次の腰をかき抱いた孫市は、慶次に挑みかかるように再び腰を動かしはじめた。
汗でじっとり濡れた慶次の胸に唇をよせ、孫市は乳首に吸い付いた。
舌につんとした尖りを感じた。そこを舌先で舐め転がすと、慶次の躯がぴくりと震えた。瞬間、しっとりと濡れた慶次の内部が、生き物のように蠢き、孫市のものをギュッと締め付けた。
心から愛おしい、と孫市は思った。
いままでたくさんの女人を愛した。しかし、慶次に対する想いほどの、胸に痛みを感じるような愛おしさを抱かせた女人はいまだかつていなかった。
見ている者に畏怖の念を抱かせる堂々とした偉丈夫。その朗らかな人柄がよく現れた、快活な男らしい美貌。戦場で見せる姿はまさに鬼神だが、その心はまるで大海のように広く深い。
孫市はいまだ、慶次が激怒する姿を見たことがない。
常人なら、立腹するようなことをされても、いつでも平然とかまえている。慶次は、たとえ自分を殺そうとした相手であっても、そいつが窮地に陥ったときは手をさしのべることができる男。そういう途方もない情け深さを持っている。
こんな男が身近にいて、惚れないほうがどうかしている。
(俺もまた、抗いがたい慶次の魅力の虜となった男だ)
慶次の肌の匂いをかぎながら、孫市はしみじみ思った。
しかし、孫市はいまだ慶次に愛している、と言ったことがない。
そればかりか、慶次とともに街中を歩いているときでさえも、女人を口説いてしまう。慶次のまえでナンパをするのは、男に恋している自分をいまだ認められない弱さから。女人を口説かない自分なんて、自分らしくない、そういう思いがあってしていることだった。
決して、本気で口説いているわけではない。そして孫市自身、その弱さを恥じているのだが、当の慶次は全く気にしている様子がなく、ただ面白そうに笑って見ているだけだった。
それがまた、慶次らしくあるのだけれど、癪に触る。
怒って、嫉妬した姿を見せてくれれば、俺には慶次しかいないと甘い言葉をささやき、ごく自然に愛を告げることができるものを、とても一筋縄では御すことができないこの男は、孫市の期待とは全く違う態度をしてみせた。
(猫のようにつかみどころがない、男だ)
孫市はそういう印象を抱いたが、背を被う慶次の見事な淡金色の髪を見ているうちに、
(いや。つかみどころのない獅子だ)
としか思えなくなった。それもとびきり上等の。だが、幸い、獅子は獅子でも懐かない獅子ではない。
何度も体位を変え、ほとばしる愛欲をぶつけるように、孫市は慶次を穿った。ぴんと張りつめたなめらかな肌を、指やてのひら、唇で丹念に愛撫するたび、激しく震えていた慶次の全身の筋肉が、ついに巌のように硬くなった。
最後の絶頂の時がきた、と孫市が思ったと同時に、慶次は鼻にかかったような甘い喘ぎ声をあげた。孫市の胸と腹の間を擦りつけていた慶次の陰茎がぶるりと震える。熱い体液がほとばしり、孫市の肌を濡らした。。
孫市もまた、収縮を繰り返してはぴたりと包み込んでくる、慶次の体内に精を放った。
間もなく、きつく締め付けていた慶次が、徐々に弛緩していった。腰をひいて、孫市は力を失った陰茎を引き抜く。
横たわったまま、孫市は慶次を抱きしめ続けた。慶次は、絶頂の余韻から冷めやらず、意識が朦朧とした表情をしていたが、やがて顔を上げた。そして、潤んだ目でじっと孫市を見たあと、甘えるようなしぐさで、鼻先を孫市の胸にすり寄せた。
孫市は、胸の奥からじわりと温かい感情が込みあげて来るのを感じた。慶次に、愛されている。そう強く思った。とたんに、泣きたくなるような幸福感が押し寄せてきて、鼻の奥がつんと痛くなった。
孫市は、背を掴んでいる慶次の大きな手の温もりを感じながら、いっそうきつく慶次を抱きしめた。
「あんたを待っている間、一日がたまらなく長かったぜ」
しばらく無言で、孫市に身を寄せていた慶次が、ふいに言った。
「実を言うと、あんたに会わずに家に戻ろうかと、今日、ちらりと思ったんだぜ」
少しむくれたような慶次の口調に、孫市は笑った。
「本当にすまなかったな。・・・けど、お前は帰らずに俺を待っていてくれた」
「ああ。でも、あんたが今日も戻ってこなかったとしたら、どうなっていたか分からないぜ。待ちくたびれて、帰っちまってたかもしれないな」
いたずらっぽく言う慶次に、孫市はにやけ笑いをした。
「いいや。慶次は、それでも俺を待っていてくれた。慶次が、俺に会わずに帰ってしまうなんて、ありえないからな」
「へえ、こりゃ、驚いた。ずいぶんと確信を持って言うねえ」
「それはそうさ。お前は俺に惚れているからな。・・・それに、お前の肉体を満足させられる男なんて、俺しかいないだろ?」
そこまで言うと、慶次はふきだした。そして、しばらく躰を震わせながら笑ったあと、じっと孫市を見つめた。
「そう明け透けに言われちまうと、なんと答えたらいいのか、わからなくなるねえ」
「図星すぎて、返答に困るってことか?」
「まぁ、そんなところかね。おおむね、当たってる」
「おおむね、ってなんだよ。ひでえなあ」
いまだくすくす笑っている慶次に、孫市はしかめた顔を見せたが、その実、慶次の返答に満足していた。
(いまなら・・・この雰囲気の中でなら、慶次に愛している、と正直に告白できる)
表情を引き締め、孫市はやや間を置いてから言葉を継いだ。だが、その口から出てきたのは、孫市自身、予想していなかった言葉だった。
「慶次、俺と一緒に暮らさないか?」
慶次の目が、驚きで見開かれた。
「えっ」
そう言ったきり、絶句した。孫市も、自分で言った言葉に驚いた。しかし、驚きが通り過ぎると、これこそ心の奥底で望んでいたことだったのだ、と自覚した。孫市は慶次の手をとって強く握った。
「なぁ、そうしようぜ、慶次。陸奥の俺の家で一緒に暮らそう。お前はほとんど京にいるし、俺はほぼ一年の大半奥州にいて、政宗と戦場を渡り歩いている生活だ。政宗は蘆名の領地を狙っているから、今後ますます忙しくなりそうだし、今までのような離ればなれの生活じゃ、年に何度も会えないだろ」
瞬きもせず、孫市の話を聞いていた慶次は、しばらく思いまどった顔をしていたが、ややあってすまなそうに孫市を見た。
「あんたの申し出は、本当に有り難いし、嬉しい。だが、共住は気が進まねえ」
まさか、慶次から断られると思っていなかった孫市は、衝撃で一瞬言葉を失った。
「なんでだよ! 俺を愛してくれているんだろ?」
「ああ、惚れているさ。だからこそ、共住は気が進まねえんだ」
「はぁ?」
孫市は慶次の言わんとすることが、理解できなかった。惚れていると言いつつ、一緒に暮らすのは嫌だと言う。あまりにも矛盾している。
「あんたも俺も、束縛を嫌う質だからねえ。だがそれでも、おそらく共に暮らしはじめたら、互いが互いを干渉せずにはいられなくなる。一晩、帰ってこなかったくらいで、どこで何をしていたんだと問いただすようになり、何処へ行くにも、いちいち相手に説明し、許可をもらってからようやく外出する、そういう窮屈な関係にはなりたくねえし、そんな状態では長続きしねえ」
孫市は、そんなの考えすぎだと笑い飛ばそうとしたが、笑えなかった。
「それに俺は・・・」
慶次が言葉を継いだ。
「共に暮らしはじめたら、あんたを幻滅させると思うぜ? なんせ寝相は悪いし、大食らいだし、風呂上がりは素っ裸でウロウロすることがよくあるし」
「なんだ、そんなことか。寝相が悪いのも、大食らいなのも知ってるし、素っ裸で家の中をウロウロされるのは、むしろ歓迎だぜ」
孫市が笑い含みで答えると、慶次は少しホッとしたような顔になって、それからじっと見つめてきた。
「俺はあんたに惚れているし、できるかぎり一緒にいたいと思う。だが、好き合っているからと言って、生活まで共にするのは考えものだな。そう思わないか?」
孫市は頷いた。心から納得したわけでないが、慶次が危惧しているようなことが起こらないとも限らないと思ったからだ。
(そもそも慶次がそんな心配をしなければならないのも、俺のせいだしな)
互いが互いを干渉せずにはいられなくなる・・・。嫉妬や束縛を嫌う慶次のような男に、そう言わせている根本原因は自分にある、と孫市は考えた。
ほんの一年くらい前まで、女人にしか興味がなかった男から、突然、一緒に暮らそうと誘われたところで、信用できないのは当然だと思う。いつまた、女性に走るか分からない。そういう不信感が慶次の中にあるのは無理もない。
(しかも慶次の嫉妬を煽ろうと、慶次の前でいまだに女性を口説いているしな、俺)
こんな状態で、よくもまあ図々しく一緒に暮らそうだなんて誘えたもんだ、と孫市は我ながら恥ずかしかった。
しかし、自己嫌悪に陥る一方で、いつの日か近い未来に慶次と共住したいという希望は捨てられなかった。女性を口説くのをすっぱり止め、慶次に信頼される男になれば、慶次は今度こそ色よい返事をくれると信じている。
孫市は、傍らに寝そべっている慶次をつくづくと見つめた。
「俺、女性も好きだが、お前のほうが何倍も好きだからな。本気で愛しているんだ」
今まで男色を毛嫌いしていた孫市が、渾身の勇気を振り絞って言った告白だった。告白をした側から羞恥で顔が紅く染まった。
驚きで、まじまじとこちらを見ている慶次の視線が突き刺さるようで、孫市はどぎまぎする。照れ隠しのために慶次の顔を両手で挟み、視線から逃れるために強引に接吻した。
慶次は深い接吻を受けながら、心の中で笑っていた。孫市の精一杯の告白が、くすぐったくも嬉しかった。
孫市は長い夢の中にいる。目覚めてしまえば、女人のもとへ戻って行く・・・そう思っていた慶次であったが、
(俺の見当違いだったようだねえ)
心の中で呟いて、もう一度、孫市の告白を反芻した。
胸の奥から温かい感情が沸き上がってきた。胸の内にポッと明かりが灯ったようだった。
(孫市が夢を見ている間の、刹那的な関係も面白い)
そう思っていた反面、心のどこかで、孫市との関係が長く続いて欲しいと願っていたんだ、俺は・・・。
僥倖に巡りあったかのように、浮き立つ心を抑えきれない慶次は、このとき自分の気持ちを強く自覚した。
ようやく慶次の唇を解放した孫市は、寝ころんだまましばらく慶次の髪を撫でていたが、顔を上げ、ふいに目を見開いた。
「わぁ、すげえ!空が真っ赤だぜ」
つられるように慶次も振り返り、縁側から見える空を見上げた。
空は本当に真っ赤だった。燃えるような茜色。
慶次はじっとしていられず、飛び起き、庭先に駆け下りた。
(こりゃあ、すごい)
慶次は声を発するのも忘れて、美しい夕焼けの空を見つめた。目に染みいるような赤が、海と空の境まで続いている。
茫然としながら見入っていると、背後から声がした。
「土砂降りの雨が過ぎ去ったあと、時々、こんな夕焼けになることがあるんだ、ここは」
へえ、と言いながら慶次は振り返った。
「雑賀崎が一番美しく見える場所を知っている。そこからこの空を見たら、もっと素晴らしいぜ。俺しか知らない秘密の場所だ。行くか?」
慶次は目を輝かせて孫市を見た。
「ああ、ぜひ連れて行ってくれ」
強く頷き、満面の笑みを浮かべた。
それを一瞬、眩しそうに見た孫市は、早く行かないと太陽が沈みきってしまうぜ、と言いながら、長着に袖を通した。慶次も、脱ぎ捨てられ部屋に転がっていた長着を慌ててはおり、破顔した孫市が差し出してきた手を、しっかり握った。
つなぎ合った手から、伝わってくる体温が心地よい。
慶次はこのとき、孫市とともに歩く未来の道が目の前に広がっているのを感じていた。
2011.06.12 完結