九度山相聞1
松風に騎乗した慶次は、紀ノ川沿いを上流に向かって走っていた。
人目を避けるために、林の道なき道をかきわけるようにして進んでいる。
慶次と松風の身体には、木の枝や高い草に引っ掻かれてできた傷がいたるところにできていた。
「松風、すまねえな。お前のおかげでようやく高野山の裾野にたどりつけたぜ」
慶次は松風の首をいたわるように撫でた。
米沢を出立してから、すでに一月近く経っていた。
関ヶ原の戦いのあと、家康に配流を下された幸村を訪ねるために高野山領にある九度山に向かっている。
訪ねてゆくといっても、かつて真田とともに家康に刃向かった上杉の一将が、堂々と幸村に会いにゆくなどできるはずもない。とくに紀伊に入ってからは、必然的に隠れ潜みながらの旅になった。
人目を引く金色の髪を褐色に染め、地味な衣装をまとって、途中、農家や猟師の家で食べ物を分けてもらいながら野宿を重ねた旅は決して楽ではなかった。
それは米沢を出立する前から予想していたことで、慶次の身を案じる兼続にも、
「どうしても、お前だけで行くつもりなのか。警備をくぐり抜けるのは容易なことではないぞ」
と再三止められたが、慶次は行くという意志を変えなかった。
慶次に九度山行きを決意させたのは、長く幸村に仕えているくのいちの、主を思う心にうたれたからであった。
途中、警備の者に肩を切り付けられ酷い怪我を負いながら、九度山から米沢までひた走ってきた彼女は、蟄居先で幸村がいかに気を落とし、絶望しているかを兼続と慶次を前に語った。
たとえ雪が降ろうとも、毎朝欠かさず続けていた鍛練もやらず、部屋を締め切りにして寝床でふさぎ込み、満足に食事も取らない生活を送っていたため、身体は痩せこけ、馬に乗るのもやっとというほどに体力が落ちてしまって、昌幸や家臣たちが心を痛めているのだという。
皆でいくら食事を勧めても手をつけようとせず、しまいには昌幸にさえも、
「私のことは放っておいてください」
と言い放ち、一切聞く耳をもたないので、どうしたものやらと真田家の者一同が懊悩しているとのことだった。
「昌幸様でさえ、幸村様を立ち直らせることができないのにあたしでは無理。…でも、もしかしたら友達なら元気づけられるかもしれないと思って。どうか幸村様を助けてください」
いつも元気なくのいちが、今にも泣きそうな声で訴える姿が余計に哀れをさそった。
自分の危険も省みず、ただ幸村を救いたいがためにやってきた彼女を、慶次は放っておけなかった。
ましてあの礼儀正しく温厚な幸村が、父・昌幸に反抗するなど異常ともいえること。馬に騎乗するのさえやっと…という状況にも衝撃を受けていた。
(とにかく一刻でも早く幸村に会いに行かなくては)
慶次は、直ぐさまくのいちに、必ず幸村を助けに行くと約束した。
同じく兼続もまた、幸村の身を案じ、最初は、
「私も慶次と一緒に幸村のもとへ行こう」
と言っていたのだが、いざ、景勝にその件の伺いを立てると、たいてい兼続の提案を否定しない景勝には珍しく、
「真田家は大変なときであり、助けたいのは山々であるが、上杉も今が肝心の時。兼続を行かせるわけにはいかぬ」
と強い口調で否定した。
兼続は米沢城下の区画整備、農地の開拓を一手に任され、早朝から夜遅くまで働きづめの日々を送っていた。
今後、米沢で上杉の家臣たちが飢えずに食べて行けるかどうか、兼続の手腕にかかっていた。そこまで上杉の経済状況は逼迫している。
実質的に上杉を動かしているのは兼続。景勝はそれをよく自覚しており、真田に同情はしても兼続は行かせない、という決意を変えなかった。
景勝に反対されれば、兼続とて幸村に会いに行くとは言い張れない。
結局、一人で行かせまいとする兼続の反対を押し切る形で米沢を出立したのだが、結果的にこれでよかったのだと慶次は思っている。万一、警備員に捕まり正体を詮索されたとしても、自分だけならどうとでも言える。仮に上杉の前田慶次と知られたところで、
「上杉から出奔してきた。今は上杉と何の関係もない」
と言えば、風来坊な傾奇者として世に有名である前田慶次のこと、出奔は事実なのだろうと思ってもらえるはずだ。
しかし兼続の場合、そうはいかない。上杉家の執政として、世間で知れ渡っている兼続が、上杉を出奔したと言ったところで誰も信じないし、逆に、上杉は徳川家への反逆を企んでいるのだと思われかねない。兼続と景勝をそんな危険にさらすわけにはいかなかった。
(だが、そうは思っても、やっぱり兼続と長い間離れるのは寂しいものだねえ)
最後まで九度山行きを反対しながらも、旅立つ日には笑顔で見送ってくれた兼続の姿を慶次は心に思い描いた。
慶次にとって、兼続は伴侶といえる男だった。
共に住んではいないが、たびたび兼続の屋敷で寝泊まりし、半同棲のような生活を送っている。趣味も話も合い、何より一緒にいて楽しく心地よい。
根無し草のように、ひとところに落ち着いたことのなかった慶次が、上杉家を人生の終着地として選んだのはひとえに兼続がいるからだ。
思えば、これほど長く兼続と離れていたのは、長谷堂城の戦いのあと一度上杉家から離れていた期間を別して、始めてのこと。離れてみて、改めて兼続に惚れている己を再確認し、慶次は感傷的になった。
そんな慶次の心を読み取ったのか、松風がブルルといなないた。
悠長に、兼続のことなど考えている場合ではないだろう、といいたげに前脚をドンと踏み鳴らし、再び、うっそうと繁る草むらをかきわけ歩き始めた。
「ごめんよ、松風。お前のいうとおり油断してはダメだな。敵さんにいつ見つかっても不思議じゃねえ状況だ」
慶次は松風の肩をぽんぽんと叩き、表情を引き締めた。
実際、人の気配をいたるところで感じた。硝煙の臭いがするところを見ると、鉄砲を持っているものもいるらしい。
さすが九度山を目前にして、いっそう防衛線が堅固になったことを実感した。
「さて、どうしたら良いかねえ…」
判断に迷った慶次は、胸の前で腕を組んだ。
矛を片手に松風で突進し、警備の者を打ち倒してゆくのはたやすいことだ。しかし、後々のことを考えるとそれはやりたくなかった。
九度山に侵入しようとしていることを彼らに知られては、たとえ幸村のところへたどり着いても、到底、長くは留まれない。
心の病は月日をかけなければ治らないものだし、幸村が元気になったのを見届けてから帰途につくつもりで米沢を出たのだ。敵に追われて、ろくに幸村と話せないままに帰ることになるなら来た意味がない。
なんとしても、見つかるわけにはいかないと思った。
(日没までどこかに身を潜めて、暗くなってから動き出したほうがいいかもしれねえな…)
慶次は、音を立てないよう注意深く松風から降り、どこか姿を隠せそうな場所はないかと見渡した。
その時だった。
不意に人の気配を背後に感じ、慶次はとっさに矛を掴み、振り向き様に切り込もうとした。
「あっ」
が、微かな女の悲鳴が聞こえたそこには、矛を避けようとして倒れたくのいちがうずくまっていて、慶次は動きを止めた。
「なんだ、あんただったのかい?!」
驚きのあまり、大声を上げてしまったことに気づき、慶次は慌てて声を低くした。
「傷がちゃんと癒えるまで、米沢で養生するよう兼続に言われたのじゃなかったのかい」
兼続は、彼女のために自分の屋敷の部屋をひとつ明け渡し、医師にも見せ、あれこれと世話を焼いていたはずだ。
まさか、兼続に黙って抜け出して来たのではないかと思い、慶次が問い詰めるようにくのいちを見ると、彼女は身をすくめた。
「幸村様が心配で、いてもたってもいられないんだもん」
そう言って、心細げにこちらを伺っているくのいちを見ているうちに、慶次は責める気持ちが消えてしまった。
「しかたがないねえ」
ため息まじりに言って、慶次はくのいちに手を差し出し、立ち上がらせた。
「肩の傷は痛まないかい?」
「少し痛むけど平気」
「そうかい。なら、ともに幸村のところへ行こう。案内、頼めるかい?」
慶次が問うと、くのいちは力強く頷いた。
雨が降る夜は警備が薄くなる、というくのいちの助言に従い、慶次は雨の日を待った。
くのいちとともに、今にも崩れ落ちそうな小屋に隠れること三日。夕方になって、ようやく待望の雨がふりだした。
「この分だと、夜更けまで雨は止まないだろうよ。今夜、出発するぜ」
「りょうかい〜!」
幸村の元に帰れるめどがつき、くのいちはよほど嬉しいのか明るく返事をした。
「敵さんの目を盗んで九度山に行くのに一番良い経路を教えてくれねえか?」
地図を開いて、慶次はくのいちを見た。
「比較的敵がいないのは、ここから南下して、一度、高野山に入ってから九度山へ向かう経路です〜。遠回りになるけど、このまま紀ノ川沿いを行くより警備も薄いから良いと思う。高野山は女が入ってはいけない決まりだけど、そんなの無視して入ちゃってる。もし見つかっても隠れられるところも多いから」
くのいちは、そう説明したあと慶次の頭からつま先までを眺め見て、再び言った。
「…でもやっぱり、この経路を行くのは無理だと思う」
意外なことを言われて、慶次はキョトンとした。
「どうしてだい?」
「あたしは忍びだから、道なんかないところでも突っ走れるけど、前田様はねえ…。幸村様より走るの向いてそうにないもん」
「あんた、ずいぶんなことを言うねえ!」
くのいちの遠慮ない物言いに、慶次は大笑いしてしまった。
「まぁ、確かに俺は走るのに長けちゃいないが、俺には頼りになる相棒がいるから心配しなくても大丈夫さ」
「そりゃ、あたしだって松風がすごい馬ってことは良く知ってるけど、馬は道がある場所を走らせてこそ、速く走れるものだし、大丈夫かなぁ」
くのいちは、半信半疑な顔で慶次を見たが、松風なら心配ないと言い切る慶次に押されて、高野山を突っ切る経路を行くことにした。
天が二人の味方をしているのか、夜遅く、雨がさらに激しさをました。警備の者たちは次々に帰路につき、人の気配を感じなくなった。
「もう大丈夫だろう。出発するぜ」
数寸先を見るのがやっと、という暗闇の中、小屋から出た慶次は指笛を鳴らし、松風を呼んだ。
間もなく、木々の間に身を潜めていた松風が、慶次のところに走り寄ってきて、早く乗れ、というように慶次の肩に鼻面を押し当てた。
「松風、よろしく頼むぜ」
慶次は松風の鼻を優しく撫で、背に鞍を置いて跨がった。
遅れて小屋から出てきたくのいちは、慶次の準備が整ったのを確かめたあと、
「んじゃ、出発」
と声をかけ、風のように走り出した。
その後ろを慶次を乗せた松風が、追いかける。
くのいちが風なら、松風は嵐だった。
松風が走るたびにバリバリと音をたてて木の枝が薙ぎ倒されてゆく。折れた枝が慶次の身体や頬に飛んできて、無数に傷をつくった。
正直、痛くてたまらなかったが、弱音を吐いている場合ではない。いざ敵が来た時のために矛を右手で抱え、松風が走りやすいよう、できる限り身体を伏せた。
どれくらいの間、走っていただろうか。
暗闇の中、激しい雨と木々の枝を全身に浴び続け、さすがの慶次もうんざりしかけたころ、不意に目の前が明るくなった。
突然現れた眩しい光に目が眩み、慶次はそれがなんであるかすぐには分からなかったが、間もなく、刃と刃がぶつかり合う音が響いてきて、くのいちが警備の者と遭遇してしまったのだと知った。
慶次は松風とともに、光が揺れ動く方へ急行した。
たどり着いてすぐ、光に慣れてきた慶次の目に、くのいちが松明を持った十人ほどの兵に取り囲まれている姿が飛び込んできた。
突如、姿を現した慶次と松風を見て、兵たちは驚愕した。
その兵たちが、驚愕から覚める間も与えず、慶次は矛を振り上げ、松風に騎乗したまま、一足飛びに切り付けた。
たちまち、六人の首が飛び、逃げようとした兵も、すぐに慶次によって討たれた。
「すごいっ」
地面に散らばった屍を見て、くのいちが感嘆の声を上げた。
「幸村様が尊敬しているだけのことはあるぅ」
慶次は苦笑いをした。
「おだてたって、何もでないぜ」
「おだてなんかじゃなく、本当に幸村様は前田様のこと尊敬してるんだって」
尚も、驚きの面持ちで言うくのいちに、慶次は笑いかけ、
「それより、あんた、怪我はないかい?」
気になっていたことを尋ねた。
「あたしなら全然大丈夫」
「そうかい。それじゃあ、死体をさっさと隠して出発しよう。夜が明けて警備の者がきたとき、死体を見られたら厄介だからねえ」
慶次とくのいちは、人目につきにくい洞穴に遺体を隠したあと、再び、出発した。
半刻ほど走ったところで、松風を誘導していたくのいちが、不意に立ち止まった。
くのいちは、そばにあった木にしがみつき、急勾配になっている斜面の縁から、真下を見下ろした。
慶次は松風から降りて、くのいちに近づいた。
「何を見ているんだい?」
慶次が問い掛けると、くのいちは振り返って、慶次も木につかまって下を見るよう促した。
「ほら、小さな明かりが幾つか点っているのがわかる?」
「ああ、確かに見える」
「あそこが九度山。あたし、幸村様のところにようやく帰ってきた」
くのいちは、少し濡れたような声で言った。
おそらく涙ぐんでいるのだろう。時折、手で目を擦っている。
その姿を静かに見守っていた慶次の心にも、くのいちの喜びが伝播したかのように、もうすぐ懐かしい友に会えるという喜びが、強く沸き起っていた。