夏の果て、初嵐1

 七月下旬。時刻はまだ五つ半(午前9時)にもなっていないというのに、雑賀崎城は大変な暑さであった。
 この城の敷地内にある下館で、ぐだぐだと朝寝をしていた孫市は、あまりの暑さに目を覚ました。ふとんの上で横になっているだけで、汗が額や脇の下から染み出してくる。それだけでも不愉快なのに、おまけに蝉までが喧しく鳴きはじめた。
 まるで起きろ、起きろと煽り立てられているようで、とても寝ていられない。孫市はたまらず、起きあがった。
「ああ、まったく! 暑すぎて頭がおかしくなりそうだぜ」
 誰に向かって言うわけでもなく、悪態をつき、孫市はやれやれと頭を掻いた。手を頭の上に持って行ったひょうしに脇にたまっていた汗が脇腹に沿ってつっと伝い落ちて、孫市はさらに不快な気持ちになった。
(奥州の涼しい夏に馴れちまったから、余計に夏の暑さが躰に応えるな)
 涼むために水でも浴びてこようかと思いながら、孫市は浴衣を脱ぎ捨て、褌一丁の姿になった。そして、手拭いを手に浴場に行こうとしたところで、ふいに廊下を渡ってこちらに向かってくる足音が聞こえてきた。
 近づいてきた足音は、まもなく孫市の部屋の側で止まった。
「孫市様、入ってもよろしいですか?」
 入り口近くから声がした。孫市の側近のひとり、鶴首だった。
 部屋は風が通るよう、障子も襖も開け放たれていたが、無断で部屋を覗くことはためらわれるのか、孫市の側近たちは入る前に必ず声をかけた。
 この部屋は、孫市だけでなく、客人である慶次も寝起きしており、しかもこの客人は孫市の恋人であると、今では側近たち皆が知っている。そのため余計に気安く入れないのだ。
「ああ、入ってかまわないぜ」
 孫市はけだるげに胡座をかき、欠伸まじりに鶴首に声をかけた。
 失礼します、と言いながら鶴首は部屋に入ってきた。そして孫市の姿を見るなり目を丸くし、次いで軽くため息を吐いた。言われなくとも、褌一丁の姿に呆れているのことが分かった。
「暑いんだ。しかたないだろ?」
「確かに暑いことは暑いですが、そのような格好では色男も形無しですね」
 鶴首は皮肉まじりに言う。
「・・・それに、その髭。何日剃っていないのですか? まるで落武者に見えますよ」
 孫市は自分の顎をザリと撫でた。指先にちくちくとした痛みを感じて、思わずにやりとする。昨夜、慶次に接吻したとき、髭が当たって痛いと笑われたことを思い出したからだ。
「でも、慶次は嫌ってないみたいだぜ」
 にやにや笑いのまま、孫市は言った。鶴首はそんな孫市にまたひとつため息を吐いて、
「嫌っていないというより、しかたがないなぁと思われているだけですって。あまりだらしのない格好をしていたら、前田様に愛想を尽かされます」
 と断言する。さすがの孫市も少し不安になった。鶴首の言いなりになるのは癪だが、今日あたり髭を剃るかと思った。
「髭のことはさておき・・・何の用だ? 用があったからここに来たんだろ?」
 孫市に訊ねられて、ハッとなった鶴首はおもむろに懐から文を取り出した。
「早朝、これが届きました。政宗様からの文です」
「えっ、またか?」
 またか、と言ったのはここ三週間の間に、政宗は四通も文を送って寄こしていたからだ。いずれの文の内容も、
『馬鹿め! いつまで羽を伸ばしておる。さっさと戻ってまいれ!』
 というもので、孫市はうんざりしていた。
 そもそも最初から、三ヶ月の約束で休暇をもらって雑賀へ帰郷するはずであったのに、急遽勃発した内乱を収めるため奥州に留め置かれ、結局、予定より二ヶ月も遅れて帰郷するはめになった。
 正確には、まだ休暇をもらってから二ヶ月も経っていない。だから少なくともあと一ヶ月は、雑賀で過ごす権利があるというのが孫市の言い分で、政宗への返信にもそう書いた。
 それに今は、愛しい慶次と半同棲のような生活をしているのだ。まだまだ慶次と過ごしたいという未練もある。今、すぐ奥州に戻る気分になれないのは、慶次との別れが辛いからだ。
 今日、受け取った文にもおそらく帰国しろという催促が書かれているのだろうが、俺はまだ帰らないぞ、と思いながら孫市は文を開いた。
 しかし、文の内容は予想していたものとは違った。ハッとなった孫市の顔色が変わった。
 
 文には ]]]XU T ]TX TX ]]V ]TX ]]TX と書かれていた。

 この異国の数字を使っての文は、政宗と孫市の間で使用している暗号だった。他家に知られては命取りになるような極秘を伝える場合、この暗号を使う。いろはにほへと・・・に始まる四十八の仮名を順番に数字に置き換え、それを異国の数字に表記しただけの簡素な暗号だったが、今まで暗号が読み解かれたことはなかった。
 文を読んだ孫市は、驚愕した。
(これはまずいことになったぞ!)
 あまりのことに顔面蒼白になる。
「政宗様の文には何と?」
 孫市の表情を見ていた鶴首は、おそるおそる訊ねた。
「政宗の奴、雑賀に来るつもりだ。さいかにむかう と書いてきやがった」
 それを聞いて、鶴首も顔色を失った。
 もしも、政宗が雑賀に来ることが秀吉の耳にでも入ったら只ではすまないという思いが、このとき二人の脳裏に浮かんでいた。
 今や絶大な権力を持ち、天下統一を果たすべく、全国の有力大名に戦をしかけ屈服させている秀吉にとって、未だ秀吉に臣従していない伊達家は目の上のたんこぶ。万一、雑賀に政宗がいることが知れたら、政宗に服従を迫り、それを政宗が拒絶しようものなら、秀吉は雑賀を大軍で包囲し圧力をかけてくることもありえた。
 そうなったら、いくら秀吉が孫市と親しくとも、伊達家も雑賀も無傷で済むとは到底思えなかった。
 そういう危うい立場に、今、伊達家は立たされている。それは政宗自身が誰よりも自覚しているはずなのに、一体何を考えて雑賀に来るのか、と孫市は叱咤したくなった。
 若いながらも大器を感じさせる伊達当主は、ときにこういう馬鹿なことをしでかす。
(馬鹿も馬鹿。本当に大馬鹿だぜ、政宗!)
 孫市は心の中で叫んだ。
 いまさらながら、政宗から、奥州に戻るよう再三にわたって催促を受けたとき、大人しく帰っていればこんなことにはならなかったと孫市は激しく後悔したが、もう遅すぎた。政宗はこっちに向かっているだろう。
「鶴、今日何日だ?」
「七月二十七日です」
「文には二十二日と日付があるな」
 孫市は、おそらく政宗は海路を通って雑賀に来ると予想した。船に乗りさえすれば、風に乗り、運が良ければ数日で雑賀に着く。政宗が、今日あたり到着しても全く不思議ではない。
 孫市は立ち上がり、いそいで長着を羽織った。
「俺はこれから、港に向かう」
 鶴首に言うと、
「俺もいっしょに行きます」
 と返ってきた。二人は大急ぎで、港に向かった。


 その頃、港では──。
 孫市より一刻先に起床して、海に泳ぎに出かけた慶次が、漁師の子らに混じって、にぎやかに笑い声をたてながら海水浴を楽しんでいた。
 天気の良い、波が静かな日は、慶次は決まって海で泳ぐ。
 素っ裸になって、自由自在に泳ぐ姿は、まるで黄金色に輝く大きな魚のように見えた。その見事さゆえに、いつしか慶次は漁村で噂の的になり、今ではその朗らかな人柄と、見とれるほど美丈夫な姿に惹かれ、村の子供たちが慶次を慕って集まってくるようになった。
 海水浴日和の朝は、海岸で今か今かと慶次が現れるのを待ちわびている。
 今日も、自分を待っていてくれた子供たちと、少し沖まで泳ぎ、また戻ってきて、浅瀬で鬼ごっこなどして遊んでいるうちに、時間が過ぎた。
 朝食を食べずに来たので、グッとお腹が鳴る。
「すまねえな、みんな。俺ぁ、腹が空きすぎて倒れそうだ」
 それを聞いた子供たちは爆笑し、
「じゃあ、兄ちゃん。飯食いに戻ったほうがいいよ」
「兄ちゃんが倒れたら、俺たち、孫市様に大目玉を食らっちまうかもな」
 などと、冗談めいて言って、さようならー、また明日、と別れを告げた。
 慶次は、手を振りながら、子供たちがそれぞれの家へ向かって行くのをしばらく見送ったあと、海岸沿いを歩きはじめた。
 そのときだった。ふと沖を見た慶次は、一目で荷船とわかる大きな船が一艘、足早にこちらに向かって来ているのに気づいた。
 慶次は不思議に思い、首を傾げた。
 もう四ヶ月近く雑賀崎荷滞在している慶次は、ここ雑賀崎に着港する船のほとんどは漁船で、荷を積んだ船が来るのは、大抵一月に一艘から二艘程度だと知った。荷船は鉄砲や火薬やらを積んでいることがほとんどで、そのような荷が雑賀崎に着くときは、必ず雑賀衆が荷受けに来るはずであった。
 しかし、今、港にはそれらしき人がひとりもいない。
 見るからに不審な船を警戒した慶次は、海に入り、岩陰に隠れた。いざというときのために、雑賀衆に危険を知らせる半鐘が、雑賀崎城の麓の西北にあり、そこまでの道のりは陸路を行くより、泳いだほうが速いとこを慶次は知っている。この四ヶ月で、慶次もすっかり雑賀崎城周辺に詳しくなった。
 
 船が港に着いたのは、慶次が身を隠して間もなくだった。
 船の横腹についたハシゴを伝って降りてきたのは、たったひとり。顔を隠してよく見えないが、まだ年若い男に見えた。
 男を降ろすと、船は何も荷を降ろさずすぐに南へ向かった。
 男は地味な黒に近い小袖、袴を身につけ、頭には布のようなものをかぶっている。こんな暑い日だというのに、見るからに暑苦しい格好をした姿は奇妙に見えた。それに加え、着ているものは地味だが、布の素材は上等に見え、それがまた余計に怪しい。
(何かわけありの孫市の客・・・かねえ?)
 そう思いながら、慶次は男を目で追っていたが、ふいに彼の姿がある男の姿と重なった。体格といい、年頃といい、一致している。
(もしかして伊達の殿さんか? だが、政宗がたったひとりで供も連れず、雑賀に来るなんてことあるかねえ・・・)
 半信半疑のまま、慶次はもっと男に近づこうと海に潜った。水中の中で水を一蹴りし、すーっと音もなく移動する。
 海岸沿いを歩いている男の脇まで近づき、頭だけ出した。
(やっぱり政宗だ。間違いねえ)
 いかにも勝ち気な鋭い隻眼、つんとわずかに上がった鼻先を見て、慶次は確信した。
「いよう! 久しぶりだねえ」
 水中からひょっこり顔を出したまま、慶次は声をかけた。
 政宗は、足を止め、腰を抜かさんばかりの顔でギョッとこちらを向いた。声をかけたのが慶次と分かって、警戒の色なくなったが、驚愕は相変わらず解けなかった。
「慶次ではないか! こんなところで何をしておる?」
「何って・・・見ての通り海遊びさ。それより、あんたこそどうしたんだい? ひとりのようだが大丈夫なのかい?・・・ああ、ちょっと待ってくれ。今、そっちに行くぜ」 
 慶次は目の前の岩に手をついて、ぐいっと躰を押し上げ、陸に上がった。
 手のひらで顔の水気を拭って、手で髪を絞る。髪から垂れる水がだいぶなくなったところで、政宗が唖然して、自分を見ていることにようやく気づいた。
「け、け、け、け、け」
「なんだい? けけけけ、けけけけ、譫言を言って」
「け、け、慶次!」
 口元をわななかせながら、政宗が叫んだ。
「き、貴様・・・し、し、下が露出しておるではないか!」
 言われて慶次は、自分の股間を見た。褌さえ身につけていないから、当然、男根が丸見えである。
「ああ、褌はあっちに置いてきちまった。泳ぐときは邪魔でね」
 何か問題でもあるのかい、と問いかけるように見た慶次に、政宗は真っ赤な顔を向けた。上気した頬をぶるぶる震わせ、
「馬鹿め、馬鹿め、馬鹿め!」
 と叫んだが、馬鹿めと言うわりには、その視線はしっかり慶次の股間に釘付けになっている。目を皿のようにして見ている政宗を見て、慶次はニヤリと太い笑みを浮かべた。
「もしかして政宗は、俺のブツの大きさに妬いているのかい?」
「馬鹿め! わしはそんな器量の狭い男でないわ!」
 ますます顔を赤らめて、政宗は反論する。
「それより、わしを孫市の城へ案内せよ。こんなところで素っ裸の貴様と立ち話をしておっては、嫌でも人目につく」
「あんたの言うとおりだ。すまなかったねえ、ついうっかりしちまったよ」
 政宗は何かわけがあって、忍んで雑賀に来たことを慶次は察している。
 ひとこと謝り、慌てて褌と長着を引っかけておいた岩場に戻った。そして、あたふたとそれらを身につけながら、また政宗の前まで戻ってきた。

 その間も、政宗は慶次から視線を離せずにいた。
(慶次の裸身はただの人とは思えぬような、美しさじゃな)
 海から出て、陸地に降り立った慶次を見たとき、一瞬、伝承に聞く人魚を見たかと思った。
 女の人魚は精霊のように美しいが、男の人魚は逞しく、時に嵐を起こすこともできる海神のような存在なのだと、南蛮人から聞いたことがあった。
(だが、美しいだけではない)
 全身、水濡れの慶次を見たとき、政宗は美しさとは別に、今まで慶次から感じたことがなかった“何か”を感じて、それまで体験したことがないような戦慄が背筋を走った。同時に、腰のあたりがじーんとなり、熱の塊のようなものが股間あたりに渦巻いている、そんな感覚を覚えた。

 それは、政宗の中の“男”が、初めて慶次に性的魅力を感じた瞬間に他ならなかったのだが、政宗自身はまだそれに気づいていなかった。