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ほんの三ヶ月前に、慶次と孫市は出会った。場所は村のはずれのこじんまりとした酒場で、孫市がその寂れた店に入ると、一番奥の席で既に出来上がった慶次が一人愉しげに飲んでいた。
慶次以外の客は、見当たらない。
目が合った片時に、慶次はにこりとして、
「あんたも一人なのかい? よかったら一緒に飲まねぇか」
と、店内を進みだした孫市に声をかけた。
強靭な容貌からは想像がつかぬ柔らかな笑顔を見せる慶次に、孫市は二つ返事で頷いていた。
「へぇ、アンタが雑賀孫市か。噂には聞いてるぜ。凄腕らしいねぇ」
「いや、前田慶次、アンタも有名だよ」
「はっはっは、孫市は口も達者だと聞いている」
豪快に慶次が笑った一瞬間、薄暗い店内がぱっと明るく華やいだ。
粋に着こなした紅色の着物に劣らぬ慶次の放つ快活さは、周辺を陽に導く力があるらしい。
この世が乱世だと忘れさせてくれる慶次の朗らかな微笑みは、孫市の酒の肴に成り代わるほどの魅力を持つ。
「で、孫市。アンタはいつまでここにいる?」
「そうだな。特に決まってないんだよ。出て行きたい時に出て行く。いつもいつもそんな感じさ」
「そうか、俺もだ。自由が一番だ」
戦が呼べば、戦地へ赴く。拘束されるのを心底嫌う奔放な、どこか似通う彼らが、酒の力も相俟って意気投合するのは時間がかからなかった。
初老の店主が苦虫を噛み潰したような顔をしたのは、丁度丑の刻が過ぎた頃。
追加注文の銚子を、やけに乱暴に置かれた時に、孫市と慶次は互いに顔を見合わせた。
「慶次。そろそろお開きにしねぇといけねぇらしい」
「ははっ、そうだな。すまねぇなオヤジ!」
つかの間の休息が殺伐とした戦の癒しになったのは言うまでもなく、擦り切れた赤い暖簾をくぐった彼らは、しばらく店先で動かなかった。
このまま黙って歩き出せば、もう二度と会えないかもしれない。
しかし、軽々と今の棲家を聞くほどの間柄でもないのは、互いに通ずる紛れもない事実。
店の薄暗い明かりが、ふっと消えた。青白い月光だけが、躊躇した男達をぼんやりと照らしていた。
「慶次……、」
「孫市、お前に紹介したいヤツがいるんだ」
つい先ほどまで孫市は、慶次と旧知の仲であるかのような錯覚を起こしていた。
それは孫市だけでなく、慶次にも言えることだろう。親しげに呟いた、慶次の穏やかな笑みがそれを物語る。
だが、その言葉が、孫市の心にズシンと重く響いた。
「慶次、それは……その、お、女なのか?」
「はは、流石だな孫市は。そういえばそっちのほうも達者だと聞いたことがあるねぇ」
「そっそれはアレだ、噂が噂を呼んでさぁ……、なんつーかその、嘘が真実になったりね、あ、これじゃまたややこしくなる。俺の知らない処で変な武勇伝が一人歩きしたりしてな……」
「明日昼時、この先の一本杉が立つ丘で待ってるぜ孫市」
慶次はしどろもどろの孫市に別れを告げ、ひらりと着物を靡かせて背を向けた。
慶次の背中は広く大きく、召し物に施された艶やかな黄金椿が月影に淡く反射する。
「……まいったな、女なんかを紹介されちまうのかよ」
孫市はぽりぽりと顎鬚を掻き、なんとも言えぬため息を吐いた。
女に関しては言い訳をする余地もない。遊びだけの女を思い出すだけ数えてみても、両手両脚の指の数だけでは到底足らぬ。
愛しい女を紹介されるまで、慶次は孫市に気を許してくれたと解釈すれば良いのだろうが、先の高揚した気分と酔いが一気に冷めた。
「まぁ、会う口実も出来たことだし、明日は精一杯の笑顔で慶次を迎えるとするか」
孫市が遠く見詰める視線の先には、小高い丘の一本杉がゆるやかな夜風に惑わされていた。
翌日はすっきりとした青空が広がる、正に快晴と言える日だった。
「もうそろそろか」
孫市は杉の幹に座り、来る時間を今か今かと待ち構える。
昨晩、邸に戻った孫市は、無駄に目が冴え熟睡出来なかった。
遠慮がちに聞こえる小鳥の囀りと、白み始める暁の空を頼りに、寝具から起き上がって邸を出た。
約束した一本杉が立つ丘に先に着いた孫市だったが、まだ慶次の姿は見えない。
杉の幹に寄りかかった孫市は雲ひとつない大空を見上げ、想像上の慶次の女を思い描いた。
――慶次は、意外と面食いなんじゃねぇの。
いや、待てよ。アイツは外見で判断するようなヤツじゃねぇなぁ――。
「あーーー!! 駄目だ駄目だ駄目だ! 全く解らねぇ。というかね、本当は知りたくもねぇし解りたくもねぇんだよ!」
「何が知りたくないんだよ孫市」
「うわっ! 慶次……!」
いつの間にやら前方に佇む慶次が、驚いた孫市を大きな瞳で覗き込んだ。
「い、いやぁ、こっちの話」
「おかしな奴だねぇ孫市は」
「け、慶次、お前も随分早く着いたんだな」
「いや、まぁそれは……」
立派な黒馬と一緒に並ぶ慶次は、言葉を濁して孫市を見詰めた。
縋る慶次の瞳は、昨晩仕方なく諦めた孫市の心を、大きく揺さぶるのには十分な効果がある。
だがしかし、人の恋人を強引に奪うのは、いくら百戦錬磨の孫市でも気の引ける行為だ。
「で、慶次。その紹介してくれる女は?」
「孫市、お前はずっと女だと思っていたのかい?」
「ああ、そりゃそうだろう。男といえば女。男の真の姿を見極めるのは、連れている女を見定めろっていうからな。まぁ、正確に言えば正妻じゃなくて二号さんの品位で男がわかるっていう、冗談みてぇな俗説だけどね」
「そうなのか、じゃあ孫市の場合は誰を見定めればいいか解らなくなっちまうね」
「おいおいおい、ひどいなそれは。俺は今は一人しか……」
「一人? なんだ孫市。やっぱりちゃんと決まった人がいるんだねぇ。うんうん、そうだろうねぇ。孫市には男も惚れちまう深い色気があるからねぇ」
「本当か慶次。なら慶次が俺に惚れる事があるのか? 俺の今の一人になってくれる可能性があるのか?」
「孫市?! な、何を言って……」
「なぁ慶次。あるんだよな?」
「ま、……」
無意識に慶次の両腕を掴んだ孫市は、真剣に問いかけた。
孫市が至近距離で慶次の顔を見詰めるのは、これが二度目だった。
一度目は昨夜、仄かに色付いた慶次を眺めては、何事にも物怖じせぬ大きな瞳に吸い込まれそうになった。
二度目は今、俯き加減の慶次の僅かに開いた唇に目が離せない。
「慶次」
孫市の甘い吐息が吐き出されたときに、慶次の瞳がゆるりと閉じた。
きっと最初から、孫市は慶次に惚れていた。
多分最初から、孫市は慶次の傍にいたかった。
否、慶次を一目見た瞬間から、孫市は既に心を盗まれたいた。
「孫……市」
慶次の唇と孫市の唇が、あと1cmの距離に近づいた時、
「ヒヒーン!」
と、隣の松風がいい加減にしてくれよ、と言わんばかりに高く太く叫んだ。
「おいおい、頼むよ。これからが良い所なのに邪魔しないでくれるかなぁ」
「ま、まっ孫市。これが松風。俺の愛する相棒だ」
慶次は甘い余韻を払拭するかのように、松風の鬣を撫で孫市に照れ隠しの笑みを向ける。
昨日会ったばかりの人間に心の底を見せるほど、慶次は軽率でない。
だが、慶次は、孫市に己を深く知って欲しいという、今までに無かった欲求が生まれていた。
その理由の一つに、孫市には義勇武士特有の隠しても隠し切れない陰湿さや、染み付いた血生臭い擦れた感情が滲み出ていなかった。数々の戦に纏わる辛酸を上手く浄化して、飄飄と次の戦に備えているかのような、良い意味で、もののふらしからぬ個性的な孫市に、慶次は興味を持ち酒の席に誘った。
その先を望んでいたのは、孫市だけでは無い。慶次も昨晩床に着いた時から、孫市のしなやかな腕の中を想像していた。否、孫市と出会った時から――。
慶次は店を出た瞬間から、孫市と再び会う理由を探していた。
短い時間の中で考えた苦肉の策は、最も信頼する松風を紹介するという事。
慶次は、誰にでも改まって松風を紹介しているわけではない。
孫市だからこそ、松風に会って欲しかった。逆に、松風に孫市を見て欲しかった。
若干、こじつけ感が強いその提案が、孫市のノリの良さも手伝ってとんとん拍子に進んだ時、慶次はほっと胸を撫で下ろしたのを覚えている。女と勘違いしている孫市に颯爽と松風をお披露目する光景を想像し、小さな悪戯っ子のように無邪気な笑いを漏らした。
慶次も孫市に会える明日を、心待ちにしていたのだった。
当の孫市は、松風に邪魔されたことを忘れ去り、素っ頓狂な表情で松風と慶次を見比べている。
「松風?! おい、慶次。紹介したい奴ってのはまさか……」
「ああ、そのまさかだ。孫市は何を勘違いしてたのかねぇ」
慶次はカラっとした笑い声を上げ、孫市の背中を大きく叩いた。
孫市の背中に、温かい熱が帯びる。慶次の体温と、孫市の体温が初めて交差した。
それから彼らは時間の許す限り互いを訪ね、時に馬を走らせたり、時に酒を酌み交わしたりと、どちらともなく誘い合い共に時間を過ごした。
孫市が会いたいと思えば、満面の笑みを携えて慶次が邸の前に現れた。
慶次が会いたいと思えば、孫市がふらりとやって来る。
二人はまるで、当たり前のように一緒いた。そうなれば自然の成り行きで、躯も付属するものである。
密な関係の彼らだから、当然のように何度か躯を重ねる機会があったものの、妙なことに、いざ孫市が挿入しようとすると、慶次はなぜか拒否してしまうのだ。
*
「平気な顔してる俺だけどさぁ、どうしてなのかが気になるんだよねぇ」
躯だけの拒否が、今では全てを拒否されているように感じてしまう孫市だったが、再度慶次と会えば、ぎこちない雰囲気は消え一緒に笑い合える。そして頃を見はかり、交わろうとすればまた上手くいかない。
ここ三ヶ月は、その繰り返しばかりだった。
「慶次に他のヤツなんていねぇよな?」
「ヒヒン!」
怒気を含ませ全力で肯定する松風には安心したが、実際、慶次から熱情的な告白など受けたことはなかった。
勿論、孫市からも何も伝えていない。
しかし、そういう雰囲気は自ずと伝わるもの。今更という照れもあり、そのまま時を過ごしてきたのだが、そもそもそれが間違いの始まりだったのだろうか。
孫市は、慶次に心底まで惚れている。
躯の関係がなくとも、愛する気持ちは変わらないと断言が出来るほど、慶次に惚れてしまっている。
慶次が躯を背ける入り組んだ事情を知りたくなるのは、当然のことだろう。
「やっぱ戻ったほうがいいのか……?」
松風の引っ張る力が、断然強くなる。
慶次が、孫市に対して詫びるのはいつもの事。だが、今日の慶次はいつもと一味違っていた。
珍しく気が急き慶次の邸を出た孫市だが、放っておくと取り返しがつかない所まできているのかもしれない。
愛という陳腐な言葉が、孫市の脳裏を駆け巡った。
逸る感情に任せて、二度と慶次に会えなくなるのは御免だ。
慶次とまた赤の他人に戻る気など、孫市には毛頭無いのだから。
誰にも言えない心内を人知れず松風に吐き出した孫市は、漸く決心がついたのか、
「そうと決まれば前は急げってね。ありがとな松風!」
と、風を切り慶次の邸へ向った。
「慶次!」
孫市が部屋に入ると、簾越しの慶次は先の余韻を残したままの姿で、気の抜けたように畳に座っていた。いつもは溌剌とした鮮やかな着物が、どこか悲しんでるように見える。
「孫市……」
慶次は滲む瞳を隠さずに、孫市の姿を認めるとほうと息をついた。だが、同時に孫市の姿を見て現実に舞い戻り、継続する事の重大さに気圧されて再び力無く顔を伏せた。
そんな姿を見ていると、邪魔な簾を打ち壊して、今すぐに慶次を抱きしめたい衝動に駆られた孫市だったが、彼をそうやって苦しめているのは他でもない自分自身ではないかと思ってしまえば、饒舌な囁きは言わずもがな、身軽な体躯もそう易々とは動かない。
だが、このままでは、喜色を刻み続けた三ヶ月間が無駄になってしまう。
笑いあった時間の方が多かったはずなのに、辛辣な思いばかりが駆け巡るのはどうしてだろう。
「お願いだ慶次。どうして駄目なのか教えてくれ。でないと俺は……情けねぇが余計なことばかり考えちまう」
「孫市」
「俺は勝手に慶次を好きになった。お前も勝手に俺を好いてくれていると思っていた。俺は馬鹿だからな、お前が好き過ぎて周りが見えなくなっちまっている。慶次の気持ちも……、見えなくなっちまってるのかもしらねぇな。誰か……誰か別の気に入ったヤツがいるのならそう言ってくれ」
「違う、そうじゃねぇ。他の奴なんていねぇんだ。俺も孫市の事が……!」
「ならどうして……」
思い倦ねる孫市が簾に手を掛けた矢先、
「好きになりすぎて駄目なんだ」
と、慶次はぽつりと呟いた。
金色の髪先が、俯いた慶次の頬にさらりと触れた。
あと少し手を伸ばせば、繊細な細い金糸にたどり着くはずなのに、孫市の目の前に立ちはだかる褐色の簾が邪魔をする。
「こんなこと孫市がはじめてでね。孫市と同様、俺も情けねぇことにどうしていいか解らねぇ」
拳を震わせてドンと畳を殴った慶次は、三ヶ月間誰にも打ち明けられなかった心の奥を吐き出した。
慶次は今まで、人に慕われる、ということには慣れていたが、人を慕い恋煩うことには慣れていなかった。
何を言わずとも、何を望まなくとも、慶次の心情を察する相手に与えられ、そして満たされ続けてきた。
だが、孫市と出会ってから。
床に入れば、孫市の姿を思い出し、人知れず笑みを零すのも屡。
食事をする時も、無意識に孫市がいるかのように話しかけたこともある。
松風と海辺を散策すれば、前を進む孫市の姿がぼんやりと浮かんでしまう。
見覚えのある澄んだ青空が広がると、孫市に松風を紹介した時を思い出し自然と笑顔になっていく。この蒼く晴れやかな大空を、一人で見詰めるのは勿体ない、孫市と眺めればどんなに素敵なのだろう、と思わずにはいられなかった。
一人でいるより、孫市と過ごす方が数百倍も心地良い――――。
慶次は何をするのも、必然的に孫市と共に歩む姿を想像していた。
生活の全てが孫市に彩られる、そんな日常に驚いた慶次は、一体どうしたものかと悩んでいた。だが、考え悩み続ければ、頭の中は孫市ばかりになる。
そんな孫市に、己の恥部を見せることが、なんとなく気恥ずかしい。恥じらいの奥深い森林に迷い込んだ慶次は、知らず知らずに肌を合わすことすらままならない臆病者になっていた。
しかし、会わずともいられない暴走する恋心に歯止め効かず、会ってしまえば奥底から迸る激欲に身を任せ、孫市に思い切り抱かれたいと願うものの、あと一歩の処で立ち止まる。孫市だけではなく、慶次も上手く行かない右往左往の日々が続いていた。
「俺の所為で孫市を苦しめているのなら、もう会わない方がいいんじゃねぇかと最近思うようになったんだ」
御簾越しの慶次は、弱弱しく微笑んだ。戦場で見せる姿とは、全く違う別の慶次。これも孫市にしか見せない、唯一無二の姿。
黙って慶次の言葉を飲み込んだ孫市は、
「なぁ慶次」
と、呟いてその場に腰を下ろし言葉を繋ぐ。
「俺は慶次と離れたくない。ただ、それだけだ」
「……孫市」
「俺が躯だけが目的じゃねぇのは慶次も分かっているだろうが、好きだからこそ求めてしまう。だからさ、ゆっくりとな、時間が目一杯かかっても逃げ出さずに一緒に解決していかねぇか?」
寸前までは問題ない。無駄な理性を追い出せば、最後まで到達できるはずだ。孫市は、そう強く願って、塞ぎこむ慶次に語りかけた。
「俺も……、孫市と一緒にいたいし、孫市に抱かれたいと思っている」
「それじゃ話は早いぜ慶次。何も好き合ってるのに離れる事なんかねぇんだ」
「孫市」
「俺の愛に終りはない。明けない夜は無いんだ慶次」
今はまだ御簾越しでも、それがいつかは取り払われる。その頃には、彼らは真の笑顔で笑い合えるのだから。
来るべき吉日が訪れるその時まで、決して焦らず騒がずに孫市は慶次を見守り続ける。
揺るぎ無い未来を見据えながら口許を緩めた孫市に、慶次は泣き笑いの笑顔を返した。