旅ノ終ワリニ恋ハ始マル1

「孫市、聞いてくれ!今夜、二つ向こうの町で祭りがあるぜ!」
 慶次は部屋に駆け込んでくるや否や、実に嬉しそうな顔でそう告げた。
 その慶次の姿は、まるで泥水を頭からひっかぶったかのように全身酷く汚れている。美しい淡金色の髪も、渇きかけた泥がへばりつき、見事にぺしゃんと潰れていた。旅籠の部屋で荷造りをしていた孫市は、その溝ネズミさながらの慶次の姿を見て盛大に顔をしかめた。
「朝から姿を見かけないと思ったら、お前、そんな遠い所まで行っていたのか?それに、なんだその格好は?一体何をやったらそんなに汚くなれるんだ?・・・・・ったく、お前が急にいなくなったせいで、予定がくるっちまったじゃないか!」
 孫市は荷造りする手を止め、怒ったような口調で云った。
 孫市が起床した時はすでに慶次の布団は蛻の空で、朝早く旅籠を出立するはずであったのに、いつまでも帰らない慶次に少し腹を立てていた。そしてやっと帰ってきた慶次ときたら、全身泥まみれ、おまけに全く反省の色なしで無邪気に祭りの話なぞ持ち出す始末。
(あーあ、こいつはこういう奴だったよな)
 孫市は慶次をちらりと一瞥し、深いため息をついた。
「松風と朝餉の前の散歩と洒落込もうとしたんだが、松風の奴、走り出したが最後、全然引き返す気がなくてなぁ。気がついたらかなり遠くまで来ちまってねえ。おかげで、お前には迷惑を掛けちまったな」
 さすがの慶次も、孫市に心底呆れられていることに気がついたのか、すまなそうに眉を寄せ、頭をぽりぽりと掻きながら弁解をする。慶次が頭を掻く度に、渇きかけた泥が畳の上にポロポロと落ちる。
「ああ───!そんなとこで、頭なんか掻くな!泥が落ちるじゃないか!本当に、何度部屋を汚したら気が済むんだ?また旅籠の親爺に嫌みを云われるぜ。お前は図体がでかいくせして、行動はまるっきりガキそのものだからな。その度に、親爺に嫌みを云われる俺の身にもなって欲しいよ」
 慶次の巨体と傾いた姿に恐れをなした旅籠の親爺は、比較的文句を云いやすい孫市にばかり嫌みを云ってくる。親爺が嫌みを云う原因のほとんどは、慶次がつくっているにもかかわらず、だ。
 その親爺のまるい顔を思い浮かべながら、孫市はやれやれといった調子で云った。
 そんな孫市の言葉に、慶次はあからさまに不服そうな顔をする。
「行動はまるっきりガキって・・・・孫市、そりゃあちょっとばかし云い過ぎなんじゃねえかい?・・・・・それにな、俺だって好きでこんなに汚くなったんじゃねえよ。道の端を歩ってた農家の牛が勢いよく走る松風に驚いて、逃げようとした拍子に田んぼの用水路に落ちてしまってなあ。見事にすっぽり嵌っちまったもんだから、牛を引き上げるのに水路の中に入って、こうやってな、思いっきり踏ん張って押し上げなきゃなんなかったんだ。この牛が暴れる上にかなり重くてなあ・・・えらく手間取っちまったぜ」
 慶次は身振り手振りを使って、その時のことを必死に話す。
「・・・・・・牛、か?」
 そう呟いた孫市は、口を手で覆い俯いた。
 慶次が泥まみれになった理由が珍妙な上に、話している時の慶次の姿があまりにも滑稽だったので、孫市は思わず吹き出しそうになったのだ。だがここで吹き出しては、自分が怒っているんだと云うことを示すことができなくなる。
 孫市は吹き出しそうにになる表情をきりっと引き締め、「御託はそれくらいにして、さっさと川原にでも行って身体を洗ってこい!お前、祭りに行きたいんだろ?」と慶次を一喝し、部屋からさっさと追い払う。
 追い払われた慶次が着替えを手に、慌てて部屋を出て行くのを尻目にしながら、孫市はにやっと笑う。先ほどから慶次に憎まれ口を叩いていた孫市だが、その実嬉しくてたまらなかった。これであと一日長く慶次と一緒にいられるのだと思うと、孫市の顔の筋肉は自然と緩んでしまうのだ。


 慶次と孫市が川中島で上杉軍との戦いを終えたのは、三週間あまり前のことである。それ以来彼らは、一緒に旅を続けていた。二人が共に旅をすることとなったきっかけは、京に行こうとしている慶次が雑賀まで帰る孫市に「途中まで一緒に行かねえか?」と話を持ちかけたことから始まった。
 全く意図していなかったこととはいえ、慶次と旅をすることは孫市にとって実に都合が良かった。なぜなら孫市には、あわよくば慶次を雑賀に連れて行って自分の仲間として引き入れたい、という下心があったからだ。
 慶次を自分の仲間にしたいという思いは、孫市が以前から漠然と感じていたことである。
 だが川中島で慶次の勇猛振りを見て以来、孫市は慶次が欲しいと真剣に思うようになった。
 正直云えばそれまでは、戦場で会うたびに孫市を狙うかのようにつきまとう慶次の存在を疎ましく思っていた。あまりにもしつこく追ってくるので、俺に懸想しているんじゃないだろうな?と疑ったこともある。
 それでも孫市は、慶次の腕には一目置いていた。慶次の戦い振りを目にする度に、その強さに圧倒された。
 とはいえ、それは心から感服したという類のものではなかった。
(俺の腕だって慶次に負けちゃいない)
 そう思う気持ちが、孫市の心に常にあったことは否定できない。慶次がよい戦さ振りをすればするほど、孫市も負けてなるものかと奮戦する。良い意味で、慶次の存在は孫市の起爆剤となっていた。
 だが川中島で慶次の戦いぶりを見て、孫市のその自惚れた心は見事にへし折られた。慶次の戦い振りは、それくらい尋常ではなかったのだ。
 松風と一体となった慶次は、疾風のような速さで戦場を突き進み、朱槍を振り回しては、あっという間に敵をなぎ倒して行く。その死ぬことを恐れぬ、鬼神の如き武者振りに魅了され、孫市の身体は熱くなった。
 上杉軍の中には、巨大な馬に跨り雄叫びを挙げ、血濡れた朱槍を振り回す、慶次の異様なまでの形相に度肝を抜かれて逃げ出す者もいれば、戦うことを忘れて慶次を呆けたようにながめる者、さらには「帝釈天様の御降臨じゃ!帝釈天様が現れなすったぞ!」と叫び、地べたに額をこすりつけて平服する者さえ現れた。慶次の姿は、まさに地上に舞い降りた軍神の如きであった。
 威厳溢れたその存在感に、孫市は完全に屈服した。
 慶次に嫉妬する感情が湧き起こるよりも先に、慶次に心酔した。
(この男が欲しい!)
 孫市は、この時心底そう思った。
 だが孫市は、その思いを慶次に伝えることを躊躇していた。
 というのは、孫市と同様、慶次の戦い振りに惚れ込んだ政宗が「儂の所へ来い。悪いようにはせん」と慶次を誘ってみたものの、慶次にそれを断られていたのを目撃したからだ。
 上杉家に仕官しようとしていたところ、それを謙信公に断られたからといって、すぐに他家に仕官する気が起きてくるというものでもないだろう。それに慶次はわざわざ織田家を出奔して上杉家に使えようとしていたほど、謙信公に惚れ込んでいたのだ。やはり未練があるのかも知れない。
(だがなんとか、慶次を雑賀に誘えないものだろうか・・・・・)
 慶次から旅の提案を持ちかけられたのは、孫市がそう思案してた矢先のことである。
 孫市は一も二もなく、この話に飛びついた。

 このような理由から慶次の提案を承諾した孫市にとって、慶次との旅はあくまで有能な武将を雑賀に迎えるための手段であり、慶次と親睦を深めたいとか、友人になりたいからという類のものではないはずであった。だがここ最近、その思いが急激に変化していた。
 いつの頃からか、慶次の側にいるとたまらなく嬉しくて、まるで長年の友人とつるんでいるかのように胸がわくわくしている自分がいることに孫市は気づいていた。今の孫市には慶次を雑賀に迎えることよりも、慶次の友人として隣にいることのほうが重要であった。
 そして日を追うごとに、慶次と離れ難い思いが募って行く。少しでも慶次との旅が長く続くようにと、面白そうな町に着く度に滞在を引き延ばそうとしていたのは、慶次よりもむしろ孫市の方。それなのに無情にも、この旅ももう終わりを迎えようとしていた。

 二人は今、伊勢国にいる。ここまで来れば京と雑賀はもう目と鼻の先。
 明日には大和国に入り、そこで二人は別れるはずであった。
 孫市が慶次に祭りの話を持ちかけられたのは、慶次と別れることに未練を感じながらも、旅籠の部屋で一人荷造りをしていたところであった。その孫市がこの話を嬉しく思わないはずはない。
 孫市の顔は完全ににやけきっていた。