旅ノ終ワリニ恋ハ始マル5
「おい、孫市!おい!」
孫市は遠い意識から聞こえてきた慶次が呼ぶ声で、ふっと我に返った。
突如孫市の目に、心配そうな顔をした慶次が、こちらをのぞき込むようにして見つめている姿が飛び込んでくる。慶次があまりにも自分に接近していたので、孫市は「うわぁ!」と叫び声をあげて飛び上がった。
「孫市、お前、大丈夫かい?」
慶次は怪訝な顔で孫市を見た。。
「ああ、大丈夫だ・・・大丈夫だと思う」
慶次に恋をしていることを自覚してしまった孫市は、なんだか慶次をすぐには直視しづらくて、胸を押さえながら俯きかげんで答える。
「それならいいが、お前さん、『それに俺が惚れているのはな、お・・』と云ったと思ったら、突然、蛙が潰されたような拉げた声を出して黙っちまうもんだから、俺は驚いたぜ。 その時のお前の顔が、あまりに蒼白としてたんで、こりゃあ傾城屋に行ったときにでも、一服盛られたんじゃねえかと一瞬思っちまったよ」
「・・・・・傾城屋で一服って、もしそうなら俺は旅籠に戻る前に死んじまってるだろ?それにそんなところで、一体誰に毒を盛られるっていうんだよ!!」
慶次に自分の気持ちを見抜かれないように、孫市はわざと語気を荒くして云う。
「女に一服盛られたんじゃねえか、とな。こう思っちまったわけだ」
「はあ?!なんだって女だぁ?!」
孫市、これには演技でなく、素で言葉つきが荒くなる。
「ほら、お前、玄人の女にやたらもてるからな。恋に狂った女に一服盛られるってこともあり得るな、と思ったのさ。お前と川中島を発って、五日目くらいの深夜に、四人の遊女がお前を取り合って旅籠の前で大喧嘩を始めたことがあっただろう?あん時俺は、四人もの女に奪い合いをされるとは、すげえ男だなぁと心底感心したんだぜ。噂に違わぬ色好み、あ、いや違った・・・粋人だなあ、と」
「お前、あの時、やっぱりまだ起きていたんじゃねえか!なんで助けに来てくれなかったんだよ!」
慶次から、聞き捨てならないような言葉を色々聞いた孫市は、とりあえず一番聞きたかったことを云う。
「だってなあ、お前を巡って女達が争いをしているところに、全然関係のない男が割って入って行くなんて野暮ってもんだろ?それに俺が入っていったところで、騒ぎを大きくするだけで、役に立たなかったと思うぜ」
あの騒ぎの中寝ていられる奴はいなかっただろう、と慶次は思ったが、それはあえて云わなかった。
「お前って、時々、冷たいよな」
慶次の云っていることが間違っているとは思わないのだが、慶次の口から『全然関係のない』と云われたことが、妙に悲しくて思えて、孫市はついそんなことを口走ってしまった。
「そうかねえ。俺は、知り合いや友人という間柄であっても、その人の色事に口出ししねえのが礼儀じゃねえか、と思っているもんでねえ。まあ、命にかかわるような深刻な状況っていうなら、別だけどな。そう云うお前だって、もし俺が仮に面倒な色事に巻き込まれていたとしても、いちいち口出ししようとは思わないだろ?」
慶次はそう云って、笑った。
「そうだな、口出ししないな」
孫市は、本心を隠してそう云った。慶次がそんなことになっていたら、否、たとえ面倒な色事でなくても、俺は口出しどころか手まで出すかもしれないと孫市は思った。そんな風に思う自分は、やはり慶次を単なる友人とは考えられなくなっているのだ。それに引き換え慶次は、俺を単なる知り合いか友人としか考えていないと思うと、孫市はこの始まったばかりの恋の前途を思い、沈鬱な気分になった。
だが孫市は、自分の恋が熱しやすく冷めやすいものであることを自覚していた。
だからこの恋も、いつものように数ヶ月で、あるいは数週間で終わるだろうと思っている。それが唯一の救いであった。
この恋は孫市にとって悪夢としか云いようのないもので、良いことなど一つもない。何で古今無類の女好きの俺が、よりによって男で、しかもこんな厄介な相手を好きになってしまったのかと恨み言を云いたくなる。脳天気にニコニコと笑っている慶次を見ていると、自分の状況が余計に理不尽なものに思えて、孫市は急に腹が立ってきた。
「ところで、慶次。お前、俺が誰に惚れているのか聞き直して来ないが、それはさほど関心がないってことなのか?」
慶次が自分のことを大して思ってはいないということが癪で、孫市はついこんなことを云ってしまう。孫市は冗談めかしてお前に惚れていると云って、慶次を驚かせてやろうと思った。
「いや、そういうわけじゃねえよ。だってお前、あの時『俺が惚れているのはな、阿国さんだ』と云おうとしていたんだろ?だからわざわざ聞き直す必要もねえと思ってな。お前、川中島を出立してから一週間くらい『阿国さん、なんで石川五右衛門なんかを相手にするんだ。俺の方が絶対阿国さんに相応しいのに』とか何とか、グチグチと俺にずっと文句云っていたほど、阿国さんに執着していたからな。よく考えてみりゃあ、これほど女好きのお前が男に惚れるはずがあるわけねえよな。お前が清四郎に惚れたなどと、誤解して悪かったな」
慶次にそう云われ、孫市はすっかり出鼻をくじかれてしまった。
慶次から、『お前が男に惚れるはずがあるわけない』と云われ、おまけに孫市が惚れているのは、阿国だと思われている。この状態では冗談でも、慶次に「お前に惚れている」などと云えなくなってしまった。
確かに慶次の云うとおり、孫市は阿国に執着していた。だが旅の途中で阿国への執着がなくなってしまった孫市は、今、慶次の口から阿国の名前を聞いてそのことを思い出したくらいだ。阿国のことで一杯だったはずの孫市の頭は、自分でも気づかないうちにいつしか慶次のことで一杯となってしまっていたのである。
孫市は、そのことにハッとさせられた。
(俺は、清四郎という恋敵の出現で慶次への思いが一気に開花しただけで、もっと以前からこいつを好きになっていたのかもしれない)
孫市はそう思いながら、目の前にいる慶次を見る。
慶次と視線が合うと、慶次はクッと喉の奥で笑い声を上げ、そのうち堪えきれなくなったのかぷっと吹き出した。孫市は一体なんなんだと言いたげな顔で、慶次を見つめる。
「いや、な。今だから云うけど、お前と旅を始めた当初、俺は正直、お前と果たして大和国まで一緒に旅を続けられるか、怪しいものだと思っていたんだぜ」
「え、な、なんでだよ!」
これには孫市、一驚して思わず腰を浮かした。
「だってお前、旅が始まって最初の週、ほとんど毎晩のように女を口説いては、夜中にふいっと出かけちまって、朝まで帰らないことが多かっただろう?それでも、出発する予定の時刻までには旅籠に戻ってくるから、一応は俺と旅を続ける意志があるんだろうなとは思ったが、女と出て行ったきり、お前がいつ戻らなくなってもおかしくない、とも思っていたんだぜ。どうせなら女と一緒にいた方が楽しいだろうし、お前には俺と旅を続けなけりゃならねえ義理もねえからな」
これは本当の事だけに耳が痛い、と孫市は思った。
あの時は、まだ慶次のことが良く分かっておらず、昼も夜も慶次と顔を付きあわせていたくないと思っていた孫市は、夜は女と遊ぶために外出していて、ほとんど旅籠にいなかったのだ。それでも慶次と旅を続けていたのは、慶次を雑賀に連れて行くという目的があったからだ。
だがその目的は、結局達成出来ないであろうが。
しかし孫市は、なぜかそれがそれほど残念なことには思えなかった。それよりも慶次とこうして、本音で語り合える間柄になれたことのほうが、得難いもののように思えた。
「そう云うお前だって、俺に何も告げずに、松風とふらりとどこかに行っちまうことがよくあったじゃねえか。で、俺よりお前の方が酷いのは、松風とどこかへ行くたびに汚くしてきてさ、そのまま旅籠に入るもんだから部屋を汚しちまって、その尻ぬぐいは大抵俺がしなければならなかったことだ」
慶次に痛いところを突かれたお返しとばかりに、孫市も冗談めかして云う。
「そうだったなぁ。俺はお前さんに、迷惑をかけていたもんなぁ。すまなかったねえ」
慶次はそう云って、眉を下げ、すまなそうな表情をする。
「でもまあ、考えてみればお前と俺は、結局、似たもの同士なのかもしれないな」
孫市がそう云うと、慶次も「そうかもしれないねえ」と頷く。
「お前も俺も本質的に個人主義で、少々自分勝手なところがあるからな。そんな俺たちが大した揉め事もせず、よく旅を続けてきたもんだ。それは俺たちが似たもの同士で、互いに相手を放任しあうような「付かず離れず」の関係を好んだからかもしれねえな。幸村あたりと旅をしていたとしたら、おそらくこうは行かなかっただろうよ。あいつに黙って俺がふらりと出かけた日には『慶次殿、外出するときは私に逐一報告してくださらねば、困ります!それが共に旅をしている者に対する、最低限度の礼儀ではございませぬか!』と、あの大真面目な口調で延々と説教されたに違いねえ。ま、あいつが云っていることは大抵間違っていねえし、正義感が強いところがあいつの良さだと、俺も思っているけどな」
幸村の口調を真似る慶次を見た孫市は、思わず吹き出した。口調だけでなく、幸村が説教するときの顔つきまで、慶次が真似ていたからだ。
「俺はな、孫市。お前さんに、とても感謝しているんだ」
ひとしきり幸村の話で盛り上がり、二人で笑い合った後、慶次は唐突にそんなことを云った。
「俺は口には出さなかったが、謙信公に仕官を断られたことがかなり辛くてなぁ。『謙信公との勝負に勝ったのに、なぜ俺を仕官させてくれなかったのだろう』とお前と旅を始めてからしばらくの間、ずっと繰り返し考えては、ウジウジと思い煩っていたのさ。お前は俺を下手に慰めようとはしなかったし、『これから、お前どうするんだ?』というような詮索も、俺に一切して来なかっただろ?俺にはそれが心地良かったし、そんなお前だからこそ俺は徐々に心を開けるようになったのだと思う。お前と過ごした三週間のおかげで、俺は吹っ切れた気がするよ」
孫市は慶次の言葉を聞いて、胸が熱くなるほど嬉しくなった。それまで孫市は、慶次をどこか自分とはかけ離れた超人的なイメージで見ていた気がする。突出した才能を持ち、戦国最強の男で、いつも飄々として、細かいところにはこだわらない。そんな男の理想を絵にかいたような慶次が、自分に対して心を開き、自身の弱い部分をさらけ出して語ってくれる。孫市はそれが嬉しかったし、慶次もまた自分と同じように、時には悩み、苦しみ、思い煩う、一人の人間なんだと思えた。そしてそんな慶次が、より愛おしく思えた。
「俺もお前と一緒に旅ができて良かったと思っている。お前とこうして語り合える仲になったしな。俺はこの先、誰と旅をすることがあったとしても、お前と旅をしたこの三週間のことは、一生忘れられない大切な思い出になるだろうと思っているよ」
孫市がそう云うと、慶次は照れたように笑い、やがて満面の笑顔になった。
「おや?お月さんが、雲から顔を出してきたねえ」
ふいに窓から外を見た慶次が、そう云って嬉しそうな顔をした。
「そうだ、孫市。これから月を肴に酒でも一献やらないか?」
実は、旅籠の親爺に頼んで買ってきてもらった酒があるんだ、と云いながら慶次は片目を瞑った。
「それは、いいな!」
と、孫市もすぐさま話に乗る。
「きれいなお月さんだねえ・・・・」
本格的に顔を出した月を見て、慶次は感嘆して云った。
「そうだな」
そう答えた孫市は、月光を浴びた慶次の横顔に目を奪われていた。
白い片頬に月の淡い光を受けたその姿は、震えが来るほど美しい。
(俺はやはり、慶次が好きだ。今は、躊躇いもなくそう云える)
孫市は胸の奥に甘い痺れを覚えながら、心の中でそう呟いた。
「慶次、とうとう行っちまったな」
「行ってしまいましたね」
翌日、孫市と清四郎は、一人京へと続く道を行く慶次の姿が見えなくなるまで見送った。
途中何度か振り返っては二人に手を振っていた慶次の姿がついに見えなくなると、二人は同時に大きなため息をついた。
「では孫市様、俺たちも雑賀に帰るとしますか・・・・」
「・・・・そうだな。じゃあ、いくぞ。しっかりつかまっていろよ。俺は慶次みたいに優しくないから、お前が途中で落ちても、わざわざ止まったりしないからな」
「そんなぁ〜〜〜!!」
孫市はわははと笑い、雑賀に向けて馬を駆けさせた。
馬を駆けさせながら、孫市は、今ここに清四郎がいて良かったと思った。
一人であったら、慶次がいなくなって胸がぽっかり空いたような寂しい気持ちが、もっと大きかっただろうと思う。
道中一緒に語り合い、一緒に握り飯を食べ、友情が芽生えかけた二人。
だがその晩泊まった旅籠で、二人はまた喧嘩を始めた。
きっかけは清四郎のこの一言であった。
「実は、昨夜、孫市様が出かけている間に、俺、慶次殿に告白しちゃったんです」
「・・・・・・・は?」
孫市はあまりの予想外のことに、間抜けた反応をしてしまった。
「だから、こ・く・は・くしちゃったんです」
「告白?告白?!告白だとーーーー!!!お前、俺に抜け駆けしてなんつうことを!!!ま、でも、どうせ慶次に振られたんだろ?お前が相手じゃ、ガキすぎるもんな」
孫市がそう云って小馬鹿にしたように笑うと、清四郎はムッとした顔をした。
「慶次殿はそんな人じゃねえ!慶次殿は、『お前が大きくなった時、それでもまだお前が俺のことを好きだと思ってくれていて、俺にもまだ好いた相手がいない時は、契りを結ぼう』と云ってくれた!」
孫市は清四郎から、聞き捨てならないことを聞いて、メラメラと嫉妬の炎を燃やした。
「お前が大きくなっても慶次のことが好きで、慶次にも好いた相手がいなかったら、契りを結ぶ、だと?清四郎、てめえ、今、即刻死ぬか、今、ここで慶次のことを忘れるか、どっちがいい?」
「俺はどっちも嫌だ!!俺はおっきくなって、そして慶次殿と契るんだ!」
「なんだとー!!お前、『契る』の意味も知らねえようなガキのくせに!・・・どうせ、『契る』なんて言葉、知らねえんだろ?」
「・・・・そうだ、それで思い出した。俺、孫市様にその意味を教えてもらうことになっているんだった。俺が、慶次殿に『契る』の意味を教えてくれ、と頼んだら、慶次殿が『そういうのは、孫市の方が得意だから孫市に教えてもらえ』と云っていた。だから孫市様、教えてくれ。お願いだ!」
「はああああああ?!!!」
慶次の奴、そんなことを俺に押しつけやがって!!今度会ったら、この借りは絶対返してもらう!
その後、雑賀に着くまで
「契るの意味を教えて!」
「あと十年たったらな」
「契るの意味を教えてください!」
「お前が、俺と同じだけ背丈が伸びたらな」
という二人の押し問答が繰り返されることになった。
2006.01.14 完結