旅ノ終ワリニ恋ハ始マル4
雲が月を覆い隠し、外はほとんど真っ暗な闇であった。
夜商う店から洩れる灯りが唯一の照明である暗い通りを、孫市は旅籠に向かってとぼとぼとと歩いていた。
(俺、ほんとどうしちまったんだろ・・・・。病気にでも罹っているんじゃないだろうか?)
孫市は傾城屋でのことを思い出し、深いため息をついた。
孫市が傾城屋で買った女は、豊満な肉体を持った色気たっぷりのいい女であった。
長いこと女を抱いていない孫市の一物は、女を抱きしめて首筋の甘い匂いをかぐと、すぐに勃ちあがった。飢えた欲望を満たすために、孫市は夢中になって女を抱いた。
何度か精を放って満足した孫市は、
(今も俺は慶次に欲情・・・・なんて馬鹿なことをができちゃうのだろうか?)
と思い、試してみることにした。
孫市は、開いた浴衣の襟元から見える、湯浴みの後の慶次の桃色の肌を思い浮かべる。
(慶次の肌、男のくせに滑らかできれいなんだよな・・・・)
なんて思いながら、慶次の肌を思い浮かべても、孫市の一物はぴくりとも反応しない。
孫市はホッと安堵する。
(やっぱり俺は、衆道とは無縁の男なんだよな・・・・ああ!良かった!)
そう思った孫市はムフフと笑い、ではもう一合戦と行くかと、腕に抱いていた女を引き寄せた。
甘い香の香りに混じって、女から微かな汗の匂いがした。
その匂いをかいだ孫市は、なぜか汗の匂いから、反射的に慶次の顔を思い浮かべた。
その後、『孫市!』と呼ぶ慶次の声、慶次の笑う顔、瞼に薄く紅を入れた慶次の切れ長の目、文句を云うときに尖る唇、松風を愛おしそうに撫でる時のとろけるような慶次の表情──孫市の好きな慶次が次々と思い浮かび、最後に慶次の顎から首筋にかけての美しい形、首筋や胸元からのぞく白い肌が脳裏に浮かぶ。すると慶次の肌だけをただ漠然と思い浮かべても、反応しなかった孫市の一物がドクッと脈を打ち、一気に屹立した。
そのあまりの出来事に、孫市は慌てふためき取り乱した。
「うわああああーーーーー!!」
叫び声を上げ、抱いていた女を放すと、這い蹲るようにして寝所から出た。そして震える手でなんとか服を見につけた孫市は、そのまま逃げるように傾城屋を飛び出した。
夏の夜のしっとりと湿った外気に触れ、孫市は次第に冷静さを取り戻した。
とぼとぼと歩きながら、あれは何だったのかと自己分析を始める。
だがいくら考えても、あれは女に欲情したのではなく、慶次に欲情して一物が反応した、という答えしか出てこない。しかも慶次の肌だけを思い浮かべても反応しなかったものが、自分が好きだなと思っている慶次と一緒に、慶次の肌を思い浮かべたとたんに反応してしまったのである。
これはやはり、そういう意味で慶次に惚れているってことなのだろうか?でもなあ、ずっと女一筋の俺がいきなり男に惚れるってことがあるのか?・・・・・確かに、俺は慶次は好きだ。友人として好きか?と問われたら、速攻でそう答えられる。もしかしたら、あまりに慶次と一緒にいる時間が長いから、俺は友情と色恋を混同しちゃっているだけかもしれないな。そう考えると、清四郎に無性に腹が立つのも、俺の一物が反応しちゃったのもつじつまが合う。
孫市はそんなことをずーっと考えながら、旅籠へ戻った。
孫市が旅籠に戻ると、もう慶次も清四郎も眠っているのか、部屋は真っ暗であった。孫市は少し安堵する。友情と色恋を混同したからといっても、慶次に欲情し勃起してしまったその夜に慶次と顔を会わせるのは、正直厳しいものがあるなぁと思っていたからである。
孫市はそっと忍び足で部屋に入った。
二部屋ある内の奥の部屋からスースーと寝息が聞こえてくる。やはり二人とももう眠っているのだと思った孫市は、
「良かった」
と小さく呟き、ふうっと息をついた。
その時だった。
「おや?ずいぶんと早かったじゃないか」
と云う、囁くような慶次の声があまりに近くから聞こえたので、孫市はギョッとした。
「け、慶次!起きていたのか?!」
「しーっ、清四郎が起きちまうぜ。もう少し小さな声で話せ。・・・・・ちょっと、待ってろ。今、火を付けるからな」
カチッカチッと火付け石が擦れる音がした後、ろうそくの火がぽっと灯る。
暗闇の中に、慶次の白い顔が浮かび上がった。
ろうそくは行灯より暗い。
その所為かろうそくに照らされた慶次の顔は、いつもと違う雰囲気に見えた。
その顔がとても艶めかしく見えて、孫市はドキリとした。
孫市がドギマギしながら慶次の顔を見つめていると
「ふふふ。お前から、花のような甘い匂いがするねえ。女の香の匂いかい?」
と含み笑いで云った慶次の顔が、スッと近づきまたスッと遠ざかる。
その時、ふいに仄かな香りが漂った。
慶次が使っている南蛮渡来のシャボンの残り香。シャボンの香りには、微かに慶次の体臭も混ざっている。その香りをかいだ瞬間、孫市の胸がキュッと苦しくなった。
甘く痺れるような苦しさ。
孫市はその苦しさに、ギュッと目を瞑った。
「もしかして、俺は汗くさかったかい?一応湯浴みをしたはずなんだが、急いでたものだから、まだ汗の匂いが取り切れていなかったみたいだねえ」
ギュッと目を瞑った孫市を見て、自分の汗くささに顔を顰めたのだと勘違いをした慶次は、すまなかったねえ、と云って照れたように笑い、身体をすっと後ろにいざなって孫市から離れた。
(いや、お前が汗くさかったから目を瞑ったんじゃない)
孫市はそう云いたかった。だが、なんで目を瞑ったのかと問われたら、明確な答えを云えないと思ったので、云うことができなかった。
「そう云えば、湯浴みで思い出したが、俺が外出していたのに、よく湯浴みに行けたなあ。ここの旅籠から湯浴みの場所まで、ちょっと離れていただろ?・・・・と、そんなことを聞く以前に、お前に謝らなければな。そもそもお前が湯浴みをする前に、俺が留守にしちゃったのがまずかったよなあ。本当に、すまなかったな」
孫市は胸の苦しみを誤魔化しながら、慶次に謝る。
「いや、それはいいんだ。俺がお前に行って来い、と云ったんだしな。それに結局、湯浴みは出来たんだし・・・・」
慶次はそこまで云うと、いきなりぶっと吹き出した。
「ちょっと今な、・・・・・俺に湯浴みに行って来いと云った時の、清四郎を思いだしちまってな。あいつな『俺は雑賀の子だから、鉄砲くらい扱える。父ちゃんに何度も教わった。ここで孫市様の鉄砲を構えて、慶次殿が戻るまでずーと部屋で荷物を見張ってるから、大丈夫だ。任せてくれ!』と、云ってねえ。その時、あまりに大真面目な顔をして云うもんだから、それが可笑しくてな。笑い堪えるのが大変だったんだぜ」
慶次はそう云って、またその時のことを思い出したのか、声を押し殺して笑った。
「・・・・で、結局あいつに任せて、行ってきたのか?」
慶次が楽しそうに清四郎のことを話すことを苦々しく思いながら、孫市は訊ねる。
「俺もかなり迷ったんだがなあ。結局、任せることにした。お前じゃ、まだ無理だから任せられないと、俺は云えなかったのさ。俺があの年頃の時分、大人からそう云われると、酷く傷ついたのを覚えているからな。それに、あいつは十二にしては身体も大きいし大人びいて見えるだろう?鉄砲を構えさせてみたら、なかなか様になっていたんで、これなら部屋に侵入してきた奴を、脅すことくらいはできるんじゃないかと思ってねえ。で、あいつは俺が戻ってくるまでずっとこの部屋で、お前の鉄砲を構えていたぜ」
慶次はそう云って、また嬉しそうに笑う。
孫市にはとにかくそれが面白くない。
(なんでそんなに嬉しそうに、あいつの話をするんだ!お前、そんなにあいつが好きなのか!)
心の中で悪態をついた。
「ところで慶次、もしお前さえ良かったら、これから傾城屋に行ったらどうだ?まだ、それほど遅い時間ではないだろう?」
慶次の口からこれ以上、清四郎の話を聞きたくないと思った孫市は、出し抜けに傾城屋行きを勧める。あいつの話を笑いながらする慶次を見るよりは、慶次が女を抱きに行ってしまうほうがまだましだ。十二の子供にこれほどまでに妬いている自分を情けなく思いながらも、孫市は嫉妬せずにはいられない。
清四郎が十二のガキで良かったと、孫市はつくづく思う。あいつがもし十七、八歳くらいの青年だったら、俺の嫉妬はこんなものではなかっただろう。それくらいの年齢なら、慶次と恋仲になってもおかしくない。慶次と清四郎が恋仲、慶次と誰かが恋仲、そう考えるだけで、孫市は胸クソ悪くなった。
だが同時に、こんなふうに慶次のことばかり考えて心を轟かせている自分が愚かに思えて、孫市は自嘲したくなる。男にこれほどまでに心を乱されているなんて、全く自分らしくない、信じたくない悪夢だ。
それでも、慶次のことを考えずにはいられない。
(俺は、やはり慶次に恋をしているのだろうか・・・・)
そんなことをつらつらと考えていると、
「いや、俺は大丈夫だ。もう済ませたからな」
慶次がそう云ったのが耳に入り、孫市は瞠目した。
「えっ・・・・お前も傾城屋に行ったのか?」
それはいくらなんでも無理だよな・・・・と思いながらも、孫市は訊ねた。
「いや、そうじゃねえ。もっと手近なところにあるだろう?」
慶次はクッと喉の奥で笑った。
その慶次の発言に、孫市は驚愕した。
(お前、清四郎とやったのか?!)
そう思ったとたん、孫市の胸に炎のように激しい嫉妬心が湧き起こった。
清四郎に対し、メラメラと憎しみの感情が生まれる。
(あの野郎、絶対許さねえ!一発撃つ!)
孫市はそんな物騒なことを考えた。
するとぶっと吹き出すような笑い声が聞こえ、孫市は、えっ?と、慶次の顔を凝視する。
「お前、何か勘違いしてるだろう?・・・・今、すっげえ恐い顔をしていたぜ」
慶次はからかうような声で云いながら、孫市の顔を指で指した。
「もしかして、お前、俺を十二の子供を襲う鬼畜とでも、思ったのか?」
ひでえなぁー、俺、そこまで信用ないのかよ〜、と慶次は冗談めかして云う。
「俺の云ったのは、このことさ」
慶次は右手を軽く上げ、片目を瞑った。
(じゃあ、慶次と清四郎はやってないのか!)
孫市の緊張の糸は、一気に解れた。
「お前が、誤解を招くような、紛らわしい云い方をするから悪いんじゃないかー!」
「だけどなぁ、手近なところにあるって云えば、普通分かるだろ?お前が勘違いしたのは、俺の云い方が悪いんじゃなくて、お前がそういうことを・・・・・・・」
慶次はそこまで云うと、あっ!と、何かひらめいたような表情をして、ニタリと笑った。
「まごいちぃ〜♪さては、さては、お前、惚れたな!」
なるほどねぇ〜としたり顔で慶次は云った。
「しかし、女一筋のお前が清四郎に惚れるとはねえ。世の中、何が起こるかわからないものだねえ・・・」
はあっ?!冗談じゃねえぜ。
「慶次、お前、これ以上にない最低最悪な勘違いをしていないか?」
孫市は眉間に皺を寄せ、ムキになって、慶次に詰め寄る。
「俺は、ガキには興味がねえし、第一、俺はそんな趣味、悪くねえぞ!俺が清四郎に惚れただと?そんなこと、冗談でも云って欲しくねえな。考えただけで、悪寒がしてくるぜ! 二度とそんなふざけたことを云うなよ。それに俺が惚れているのはな、おっ・・ひぃっ・・・・」
孫市はそこまで云って、咄嗟に息を飲み込んだ。
慶次にあらぬ誤解をされ、ムキになっていた孫市は、危うく
「俺が惚れているのはな、お前だ、慶次!」
と口走りそうになって、慌てて息を噤んだ。そして、ハッと我に返る。
(今、俺は何を云おうとしていた!俺は慶次に惚れていると、云おうとしていなかったか!)
孫市の頭の中は一瞬真っ白になり、続いてガーンと打ちのめされるような衝撃を感じた。
信じたくない!信じたくないが、俺はやっぱり、慶次に恋してしまったんだ!