虎ノ尾ヲ践ム1

 孫市は馴染みの甘味処で、慶次が来るのを待っていた。
 その姿は、妙にそわそわとして落ち着きがない。席を立ったと思うと、また座ったり、時には貧乏ゆすりまでしている。混雑した店内では、大柄な孫市が体を動かすたび隣席の客に接触する。そんな孫市に人々は不愉快そうな視線を向けていた。
(いつもの孫市さんらしくないわね・・・・)
 この店の看板娘、お珠はそう思った。
 孫市はその一見軽薄そうな容姿から、いい加減な人間だとしばしば誤解されがちではあったが、意外に良識的な人間であった。公共の場を乱すような輩に注意することはあっても、自ら進んで乱すようなことはしない礼儀正しい男だ。 
 だが、今日の孫市はそのようなことに気が回らないほど、慶次のことで頭がいっぱいであった。自分の行為が他人に不快感を与えているとか、人々から睨まれているだとかいうことにまで配慮する余裕を無くしていた。慶次に会う日は、緊張と嬉しさで朝から落ち着かない気持ちになるのだが、今日は特に酷かった。

 川中島での上杉軍との戦いの後、京に住居を移した慶次とはこれまでにも何度か会っていた。紀州の雑賀庄から京までは、馬で駆ければ二日ほどで行ける距離。慶次が京に住み始めたことは孫市にとって非常に嬉しいことであった。だが、雑賀衆を束ねる孫市がちょくちょく家を空けるわけにもいかない。慶次に会うため京に行くことができるのは、一、二ヶ月に一度が精一杯であった。
(俺ばかりでなく、慶次からも雑賀庄を訪ねてくれれば良いのだが・・・・)
 孫市は常日頃からそう思っていたが、その気持ちを慶次に云ったことはない。
 慶次は誰に対しても気安い。
 そのため、長年来の友人にでもなったかのような印象を与えるのだが、その実、容易には人を懐深くまで入れようとしない、よそよそしいところもあると孫市は考えていた。
 おそらく自分は、慶次からそれほど好かれていないのではないかと思っている。
 だがそれでも、孫市は慶次が好きだった。心底惚れきっていた。なんとしても慶次との関係を堅固なものにしたいと思った。
 だからなにか口実を作っては慶次に会いに来た。
 口実などつくらなくとも、ただ「会いたい」と云えば、それだけで慶次は自分のために時間を作ってくれるであろう。しかし、孫市にはそれができない。慶次に会いたいから会いに来たなどと云ってしまったら、それこそ完全なる敗北である。それでなくとも、自分をあまり好いていない慶次に恋をしている段階で、嫌というほど敗北感を味わわされているのだ。
 だから、いつも慶次と会う時は、断りにくい口実を作って何週間も前から約束を取りつけた。よほどのことがない限り、それを反故されないよう念入りにするためだ。
 だが今回、孫市はそうしなかった。いや、正確にいえばできなかった。
 所要のため、急遽堺に行くことが決まったのは数日前のことである。どうせ堺まで行くなら慶次に会いたいと思った孫市は、堺に着くとすぐ慶次に文を送った。
 文にはただ一言「二十六日、午の上刻(午後12時〜1時)にいつものところで待っている」とだけ書いた。突然のことでなかなか良い口実が浮かばなかったためだ。だが、今はそれを後悔していた。
(一方的で急な誘いなうえに、こんないい加減な内容では、来てくれないかもしれない。第一、文を受け取ったかどうかもわからないし、先約があれば来るのは無理であろう。せめて、もう少しましな誘い文句でも書いておけば良かった・・・)
 約束の時間より早めに着いた孫市は、甘味処に入ってからずっとこんなことを考えては、ぐちぐちと思い悩んでいた。悩んでみたところで、慶次が来るか来ないかは分かるはずもないのだが、それでも悩まずにはいられないのが恋する人間の性である。



 約束していた時刻はとっくに過ぎ、午の下刻(午後1時〜2時)を廻ろうとしていた。
 もう今日は慶次に会えないだろうと孫市が諦めかけた時、慶次はやって来た。
 慶次は人混みをかき分けながら、もの凄い勢いで走ってきた。七尺の大男が人混みの間を縫うように走る姿は、嫌でも人目を惹く。それまで死人のように生気を失っていた孫市であったが、慶次の姿を見つけたとたん、一気に生気を取り戻した。
 孫市は狂喜乱舞せんばかりに手を振った。慶次もまた孫市に気づき、手を振りながら走ってくる。次第に近づいてくる慶次を見て、孫市の鼓動が速くなった。
「もう今日はお前に会えないかと思ったよ・・・・」
 藍染めの小袖と野袴姿の慶次に釘付けになりながら、孫市は云った。
 京の繁華街。華やかな色彩の着物で溢れる中、地味な藍色一色の姿が目立つはずはないのだが、慶次は酷く目立っていた。堂々とした体躯に渋い藍色が映えている。走ってきたために、やや着崩れているところも、かえって男らしさを際立たせていた。
「いやな、もっと早く来るつもりだったんだが、不意な来客の所為で足止めを食っちまってなぁ。ずいぶんと待っただろう?すまなかったな」
 慶次は眉を寄せ、本当にすまない、といった表情した。
「いや、突然呼び出しなんかした俺が悪いんだ。迷惑をかけてしまったみたいだな」
 慶次に会えて有頂天になっている気持ちを隠すように、孫市はせきこむように云った。
「俺は嬉しかったぜ。久しぶりにお前さんに会いたいと思っていたところだったしな。前々から取り決めして会うってのもいいが、気まぐれに文で呼び出して会うってのも、なかなか粋でいいじゃねえか、なぁ」 
 慶次はそんな台詞をさらりと云った。
「う、嬉しいのか?」
 思いもよらぬことを云われ、孫市はどもりながらそう問い返した。
「ああ、嬉しいねえ」
 慶次はそう云って、にっこり笑う。
(この男は・・・・何ということを云うのだ!)
 孫市の体温は一気に上昇した。情けないほどに、体が震えている。
 慶次は自分の言行が、どれほど俺の恋情を煽っているか全く自覚していないのであろう。何の邪心も抱いていないから、こんな風にさらりと大胆な台詞を言えるのだと思う。
 孫市の胸がちくりと痛む。
 少なくとも、慶次に好感を持たれているという事実は素直に嬉しい。
 おそらく、自分は慶次の「友人」といえる地位には居るのだと思う。もう少し時間をかければ「親友」として見てくれるようになるかもしれない。
 だが、自分の望んでいるのは「恋人」という関係。
 それは、精神的な意味だけではない。肉体的な意味も含めてだ。
 もし自分がそれを慶次に告白したら、慶次はどういう反応をするだろうか?もしかしたら、自分から離れて行ってしまうかもしれない。
 それがたまらなく恐い。それくらいなら、この気持ちを隠す方がましだと思う。
 だが、それだけでは満足できなくなっている自分もいる。
 孫市の心中は複雑であった。