虎ノ尾ヲ践ム12
「慶次!」
孫市は慶次の宅の玄関に入るや否や、大声で慶次の名を呼んだ。
もう昼を一刻(2時間)以上過ぎた時間。孫市はとっくに慶次も起きていると思ったからだ。
だが慶次を呼んでも、返事が返ってこない。
「慶次!どこにいるんだ!?」
尚も名を呼ぶと
「孫市」
と呼ぶ、苦しげな慶次の声が聞こえた。
「大丈夫か?!」
苦しそうな慶次の声を聞いて、孫市は急いで慶次の声がした方へ向かう。
「ど、どうしたんだ?」
慶次はいまだ布団の中に潜ったままで、額にうっすらと汗を浮かべ酷く辛そうな表情をしていた。
「孫市」
心配そうな表情でのぞき込んできた孫市を見て、慶次は安堵のため息ともに孫市の名を呟いた。
「もう、雑賀に帰っちまったのかと思ったよ。お前の銃も、部屋になかったしな」
「そんなわけないだろ!俺は、やることをやったら、一夜を共にした相手が目が覚める前に、とんずらしちまうような汚い真似をする男じゃないぜ。第一、俺はお前に心底惚れているんだ。そのお前が目を覚ます前に帰るなんてことするわけがない。・・・お前、もしかして、俺が遊びでお前と寝たとでも思っているのか?」
思いもよらないことをいわれた孫市は、自分がいい加減な気持ちで慶次と同衾したのだと慶次から思われていたのだろうかと考え、悲しい気持ちになった。
「いや、そうじゃねえよ。根っからの女好きのお前が、そんな中途半端な気持ちで、俺を抱けねえことぐらい、俺にもよく分かっているさ。ただ俺は、目覚めたときお前がいなくて、お前がどこへ行ったのか確かめようにも、身体がだるくて起きあがれなくてなあ・・・・つい、心細くなっちまったのさ」
慶次はそう云って、酷く照れくさそうな顔をした。
「そうだ!そんなことより、お前、一体どうしたんだ?」
孫市は悲しい気持ちになっていたことを一瞬で忘れ、ハッとなって云った。
そして荒い呼吸をしている慶次の額に手を当てると、あまりの慶次の体温の熱さに驚いて飛び上がった。
「慶次!お前、凄い熱だぞ!ちょっと待っていろ、今、医者を呼んで来るからな」
孫市が勢いよく立ちあがり、玄関に向かおうとした。
その孫市を慶次が慌てて呼び止めた。
「医者は呼ばなくていい!」
「でも、その熱じゃ、絶対医者を呼んだ方がいいぜ」
「頼むから医者は呼ばないでくれ!そんなに心配しなくて大丈夫さ。熱がある原因は分かっているからな。今日一日寝ていれば、だいぶ良くなるはずだ」
慶次の焦り具合とその言葉で、孫市はすぐにピンと来た。
「ひょっとして、延べ三刻(6時間)にわたる濃厚な性交が熱の原因か?」
孫市がそう云った瞬間、慶次の顔がカッーと赤くなった。
「お前さん、そりゃあ、ずいぶんと露骨な云い方じゃないかねえ」
相変わらず赤い顔をしたまま、慶次は非難するような口調で云った。
「そうか、やはり俺との性交が原因か!」
孫市は助平顔でニタニタと笑う。
「熱を出して苦しんでいるお前には悪いが、それを聞いて俺は嬉しくなっちまったぜ。熱を出しちまうくらい、お前を熱く激しく燃え上がらせたってことだからな。これこそ男冥利に尽きるってもんだろ?・・・ホント、お前、昨晩から明け方にかけて、ずっと激しく乱れていたからな。その時のお前、もうすっげえたまらなく色っぽかっ・・・・」
孫市がそこまで云うと、パシッと慶次の平手が飛んできた。
「痛てえじゃねえか!何も打たなくたっていいだろ!」
慶次は手加減して打ったのだろうが、相当痛い。ひりひりする頬を撫でながら、涙目になって孫市は叫んだ。
「だってお前、放っておいたら、延々とその破廉恥な台詞を言い続けただろ? お前さんのその口を閉じさせるには、言葉で云うより行動で示した方が早いと思ってねえ」
慶次は辟易とした表情で、孫市を見つめた。
「慶次、お前は破廉恥って云うけどな。俺はお前との一夜がどんなに素晴らしかったか、そしてお前がどんなに艶美だったかを、正直に云ったに過ぎないぜ」
「そうかい?俺にはそうは聞こえなかったがなあ。お前には、俺に恥ずかしい思いをさせてからかいたい、という意図があったと思うけどねえ」
慶次は、ちらりと横目で孫市を窺う。
「いや、からかうというより、虐めたいという思いは少なからずあったことは認めるぜ」
孫市がニカッと笑うと、再び慶次の平手が飛んできた。
だが孫市は、それをひょいっとかわす。
「それじゃあ、もっと悪いじゃねえか!」
慶次はムキになって叫んだが、そこで力尽きてしまったのか、くてっと布団に横たわり目を閉じてしまった。
「け、け、け、け、慶次!大丈夫か?」
孫市は慌てふためき取り乱した。
孫市は慶次に恥辱を味わわせ、余計に体調を悪化させてしまったことを後悔する。
(おめえは慶次郎を粗末に扱った。今すぐ慶次郎を返してもらう)
利家がそう云った声が聞こえてきた気がして、孫市は思わずドキリとした。
「慶次、無理をさせてしまって、本当にすまない。とにかく安静にして寝ていた方がいい。今、水で冷やした手拭いと白湯を持ってくるからな。何か欲しい物や食べられそうな物があったら云ってくれ。お粥とか煮込みうどんとか、そういったものなら作れるし、それ以外のものは買ってくるから、な?」
「それじゃあ、すまねえが、解熱の頓服薬を買って来てくれねえか?解熱薬なんてもう何年も使っていなかったから、全然ねえんだ。・・・そこの引き出しに、銭が入っているから使ってくれ。この辺りに薬屋はねえから、お前さんには京の街中まで行ってもらわなきゃならねえが。面倒なことを頼んでしまって、すまねえな」
慶次は苦しげに息を吐き、潤んだ目で孫市を見上げてきた。
その潤んだ瞳を見た孫市は、こんな時だと云うのに助平心がむくむくともたげて来てしまい、慌ててそれをねじ伏せた。
「い、いや、全然面倒だと思っていないぜ。お前が苦しんでいるのも、もとはといえば俺の所為だしな。手拭いと白湯を用意したら、すぐに行って来るからな」
用意した白湯を飲ませ、水で冷やした手拭いを慶次の額にのせると、慶次が気持ちよさそうな顔をして眠り始めたので、孫市はホッと安堵した。
そして薬を買いに行こうと、厩まで馬を取り行った孫市は、厩の柱に紙袋が吊されているのに気がついた。
(なんだ?)
袋の中身を確かめると、中には解熱頓服薬と書かれた紙とともに、薬紙に包まれた十包ほどの解熱薬と葛粉が入っていた。
孫市は、その薬と葛粉は利家が置いていったものであることをすぐに察知した。
利家は、慶次がおそらく熱を出すであろうことをあらかじめ予知して、用意していたのであろう。利家に比べれば、自分は慶次について何も知らないのだということを、孫市は身に染みて感じる。
孫市は利家に嫉妬しないわけではなかったが、今はそれ以上に利家に対する感謝の念の方が強かった。
高熱がある慶次を一人家に置いて、街中まで出かけることに不安を感じていたからである。
白湯と薬、葛湯を持って慶次が寝ている枕元に行くと、人の気配に気づいた慶次がゆっくり目を開けた。
「孫市かい? あれ、ずいぶんと早かったじゃないか。俺はそんなに長く眠っていたのかい?」
慶次はぼんやりと孫市の顔を眺めながら、不思議そうに云った。
「いや、俺は薬を買いに行っていない。俺が街中まで薬を買いに行かなくても、薬があったんだよ」
「・・・・・・?」
慶次は意味が分からないというような顔をした。
「厩に行ったら、解熱薬と葛粉が入った袋が柱に吊されていた」
孫市は、慶次の肩を抱きかかえ慶次が上半身を起するのを介助しながら云った。
「きっと利家が置いていったんだな」
孫市がそう云うと、慶次は驚愕した。
「孫市、お前、叔父御と会ったのかい?」
目を大きく見開きながら云った慶次に、孫市は、
「ああ、昼頃利家と会ったぜ」
とあっさり答えた。
「利家に、お前と別れてくれと云われたが、俺はそれを突っぱねてきた」
「叔父御はそれであっさり引き下がったかい?」
「いや、あっさりとは行かなかったな。利家のしつこいことしつこいこと。何度もお前と別れるつもりはない、と云っているのに、その度に考えを変えるつもりはねえか、と訊いてきてな。ま、最後には渋々嫌々ながら納得してくれたぜ。・・・・いや、納得したってほどじゃないか」
「そうかい。そいつは難儀だったねえ。まさか叔父御がお前にまで、そんなことを云いに来るとは俺も思ってなかったからなあ」
しんみりとした顔で解熱薬を見ながら、慶次は云った。
「ま、何にせよ利家が薬を置いていってくれたのは、助かったよ。そんな状態のお前を置いて数時間ものあいだ留守にするのは正直不安だったからな。・・・それはそうと、薬を飲む前に何か腹に入れた方が良いと思って葛湯をつくってみたんだが、どうだ、飲めそうか?」
「ああ、ありがとうな」
慶次はそう云って葛湯を受けとり、しばらく黙ったまま飲んでいたが、不意に云った。
「ところで孫市。お前はなぜ叔父御が解熱薬を置いていったのか、不思議だとは思わないのかい?」
「えっ?」
慶次が唐突に云ってきたので、孫市は驚いた。
「いつものお前なら、なぜ叔父御は俺が解熱薬を必要とすることをあらかじめ知っていたのだろうと、俺に訊ねてきそうものなのに、お前が一向に訊いてこないから奇妙だなあ、と思ってね」
慶次は孫市の心を探るような眼差しで、見つめた。
「利家はお前の叔父だろ?お前がどういうとき熱を出すのか、そういうことを知っていてもおかしくないと思ったからわざわざお前に訊かなかったんだ」
孫市は内心、己が利家からあの話しを聞いていることを慶次に感づかれたのではないかと思い、動揺していた。
だが、精一杯シラを切った。
「ふーん、そうかい」
そう云って孫市を見つめる慶次の目には、疑いの色が浮かんでいる。
「なんだ、そんなに訊いて欲しいなら、訊いてやるぜ。なぜ利家は、解熱薬を用意できたんだろうなあ。お前が熱を出すことを前もって知っていないと、用意できないぜ?・・・・と、これでいいか?」
孫市はさらに動揺してきたが、利家との約束を守ろうと懸命にとぼけ続ける。
しばらく孫市の顔をじっと見ていた慶次は、ふいにフッと息をつくように笑った。
「お前と叔父御が、そんなふうに密事を交わす仲になるとはねえ」
「密事を交わす仲って、おい!俺は利家と密事なんか交わしてねえし、そもそも仲なんか良かねえぞ!」
孫市は叫んだ。
「お前、叔父御と俺とのこと、すでに知っているだろ?叔父御がお前に話したんだな」
慶次にずばっと云われ、孫市はうっと息を詰まらせた。
「まあ、お前がもう知っているなら、それはそれでいいさ。俺は、叔父御と俺が同衾していたことをお前には話すつもりでいたからな」
(それは、もしかして、お前は俺に心底惚れているってことか!そう思っていいのか?!)
期待と昂奮で胸を高鳴らせていた孫市だったが、慶次が、
「俺のせいで命の危険に晒されているお前には、話しておいたほうが良いと思ってな」
と云ったのでがっくりしてしまった。
「単に、それだけの理由か?」
孫市は情けない顔で云った。
「単に、って・・・お前は、俺のせいで危ない目に遭ったんだぜ、これからだって遭わないとは限らない。俺がお前に話しをするに、十分な理由だと思うけどねえ」
「まあ、確かにそれも十分な理由だが、ほらもう一つあるだろ?お前が話しをしようと思う理由が」
慶次ははっと目を見張った。
「叔父御はお前に、そんなことまで話したのかい?」
「ああ。だが、利家が自ら明かしたんじゃないぜ。利家とお前が同衾していたってこともそうだが、俺が利家に話してくれと頼んだんだ」
利家の名誉のために、孫市は云い加えた。
「で、どうなんだ? お前は俺に惚れているのか?」
「ああ、俺はお前に惚れているさ」
慶次はニヤリと笑って、云った。
「本当か?!」
「ああ、本当さ。だが、それはお前に恋をしているってことじゃねえけどな。俺はお前を親友だと思っている。そういう範疇で、お前に惚れているってことさ」
「ああ、そう・・・・」
孫市は心底がっくりして、ため息をついた。
「慶次、お前は、今誰かに恋しているか?」
解熱薬を飲ませた慶次を布団に横たわらせながら、孫市は訊ねた。だが、訊ねた後すぐにそれを後悔する。
慶次の口から、
「恋しているよ」
なんて言葉を聞くのは、正直恐かったからだ。
「今は、誰にも・・・恋していねえ」
薬が効いてきたのか、眠たげなトロンとした顔で慶次は云った。
「いねえのか?本当か?」
「ああ」
それを聞いた孫市は心の底から安堵して、ホッと息をついた。
しかしそれもつかの間、次に継がれた慶次の言葉でドキっとする。
「だが、これから恋をしそうな相手なら・・・・いる」
「えっ!そ、それは誰だ?!」
「それは・・・・」
(孫市、お前だ)
と慶次は云おうとしたが、それを言葉にする前に、スーッと眠りに落ちてしまった。
「おい!ちょっと、慶次!」
肝心な言葉を口にする前に、眠りに落ちてしまった慶次に向かって孫市は叫ぶ。
だが、スースーと気持ち良さそうな寝息を立てて慶次は完全に寝入ってしまった。
慶次を叩き起こすわけにもいかず、それから慶次が目を覚ますまでの四刻(8時間)もの間、孫市は慶次が恋をしそうな相手を推測しては、悶々と悩み嫉妬し続けたのだった。
2006.02.28 完結