虎ノ尾ヲ践ム11
「孫、俺はそんなふうに云えるおめえが・・・」
(俺はおめえが羨ましくてたまらねえ!俺だって慶次郎と自由に生きてみてえと望んだこともある。だが俺にはできなかった。俺にはすべてを投げ出して、慶次郎と生きる勇気などなかったんだ)
危うくそう口走りそうになった利家は、咄嗟にキュッと唇を噛みしめた。
恋敵である孫市に自分の本心をさらけ出してしまうことなど、自尊心の高い利家にはとてもできなかった。それでなくとも利家は、孫市に心の底から敗北感を味わわされていた。
その孫市に対して、己の負けを認めてしまう言葉を吐いてしまうことなど、利家には到底出来なかったのだ。
だが、孫市は利家が自分に何を云おうとしていたのか瞬時に悟った。
孫市を見る利家の眼差しが、利家の気持ちをすべて語っていたからだ。
「さっきお前は、俺に『本気か?』と訊いたが、俺は本気だ。証拠が必要っていうなら今ここで、一・前田慶次は雑賀孫市・個人と懇意にしているだけであり、雑賀衆とは何の関わりもないこと、二・もしそのことが偽りであると云える十分な証拠がある場合、現・雑賀孫市(鈴木重秀)は雑賀衆から脱退することを前田利家に誓約する、という内容を書面に記してもかまわないぜ。それを信長に見せるといい。そうすれば、疑り深いあいつの気も少しは晴れるんじゃないのか?」
しかし、孫市はそう云って利家が言いかけた言葉が聞こえていなかったかのように装った。
利家に負けないくらい自尊心が高い孫市には、利家の心境が痛いほど分かる。だからこそ孫市は、利家が口走りそうになった言葉が聞こえていなかったふりをしたのだ。それが孫市なりの利家に対する気遣いであった。
「孫!殿をあいつ呼ばわりするのは、いくらなんでも失礼じゃねえか!許しちゃおけねえ、と云いたいところだが、おめえの書面の件は名案だ。だからそれに免じて、おめえが殿をあいつ呼ばわりしていたことは、殿に黙っておいてやる。書面は今でなくていいぜ。大体そんな重要な誓約書を、その辺の適当な紙に乱雑な字で書くわけにはいかねえだろ?一ヶ月以内に書いて、慶次郎に預けてくれ。俺が取りに来る。だが、おめえ、本当にそんなことをしていいのか?慶次郎もおめえにぞっこん惚れているっていうならともかく、そうじゃねえんだ。今ならまだ間に合う。よ〜く考えた方がいいぞ」
それは利家の最後の足掻きであった。利家の激しい嫉妬と羨望が、こんなことを云わせていた。
それほど遠くない将来、慶次は本気で孫市に惚れるだろうことを、利家は予期していた。そう思うと利家は腸が煮えくり返るような悔しさを覚えるのだが、その一方で、これほど慶次に惚れている孫市にならば、慶次を任せても良いのではないか、という思いも芽生え始めていた。
「何、大丈夫さ。絶対、慶次を惚れさせて見せる。何年先かは分からないが、俺たちは恋仲になるぜ。お前、その時、悔しがってほえ面をかくなよ!」
孫市は自信ありげに、にやりと笑った。
「さーて、ほえ面をかくのは、おめえの方かもしれねえぞ。俺だってまだ慶次郎を奪い返すことを、諦めたわけじゃねえ。おめえが慶次郎を少しでも蔑ろにしやがった時は、速攻で奪い返しにくるぜ!いや、たとえ蔑ろにしなくても、慶次郎を奪い返す機会を俺はいつでも窺っている。せいぜい俺に取られないよう頑張ってくんな」
利家は半分本気、半分悔し紛れに云った。
「さてと、一応用も済んだし、そろそろ帰るとするか・・・。書面の件、有り難い。恋敵のおめえに礼は云いたくねえが、渋々嫌々ながら一応いっておくぜ。まあ、おめえが慶次郎と別れるってのが、本当は一番いいんだがなあ。孫、今からでも考え直す気はねえか?」
利家はそう云って、立ちあがった。
「ああ、全くないね!ったく、あんた本当に、しつこいな」
孫市は憮然として、そっぽを向いた。
「しつこいのは、おめえも同じだろ?・・・じゃあ、俺は帰るぜ。おめえと一緒にいても、不愉快なだけだからな」
「あ、利家!ちょっと、待ってくれ!」
孫市は帰ろうとする利家を、慌てて呼び止めた。
「なんだ、まだ何か用でもあるのか?」
利家は振り返って、あからさまに嫌そうな顔をした。
「最後に一つだけ聞きたいことがある」
孫市は真剣な眼差しで利家を見つめた。
「なんだ?」
「今もまだ慶次とお前は、同衾しているのか?」
利家は冷ややかな目つきで孫市の顔を眺めた。
「おめえ、本当に脳味噌が足りねえんじゃねえか?慶次郎を抱いてそんなことはすぐに分かっただろう?ったく、わざわざ俺にそんなことを訊いてくるなんて、よほどの馬鹿か、よほどの鈍感しかいねえぜ!それともおめえ、俺に喧嘩でも売ってるのか?」
「いや、そういうつもりじゃない!俺は全く分からなかったから訊いただけだ。第一、慶次が今もお前と同衾しているかどうかなんて、どうしたら見極められるって云うんだよ!・・・いや、待てよ。そういえばあの時慶次は、『お前のような六尺以上もある大人の男を抱くことになろうとは、考えたことがなかった』と云っていたな(詳しくは5章を参照してください)。──って、ことは、まさか、利家!お前、慶次を抱いたのか?」
それを聞いた利家は、驚愕したように目を見開いた。
「はあっ?!おめえ、俺が慶次郎に抱かれているとでも思っていたのか?!」
「だって仕方ないだろ?!慶次とお前じゃ、どう見てもそう見えるぜ。そんなことより、それを知って俺は本当にショックだよ。慶次の様子から、俺はてっきり慶次のあそこは未通だとばかり思っていたからな」
孫市が心底残念そうに云うと、利家はキッと孫市を睨んだ。
「おめえ、男を受け入れたことがある慶次郎に失望したと、こう云いてえのか?だったら、今すぐ慶次郎を返してくれ!俺は慶次郎がおめえと同衾したからと云って、少しも慶次郎に失望したりしねえよ」
「い、いや!そうじゃない!今のは完全に俺の云い方が悪かった!俺はそういう意味で云ったんじゃない!」
孫市は必死になって否定する。
「ただ俺は、永遠に慶次の初めての男になれないんだなーとそう思ってしまってな。惚れた相手の初めての相手になるっていうのは、男の夢だろ?」
「けっ!何、ガキくせえこと云ってやがる。初めてだとか初めてじゃねえとか、そんなことは俺にとって大した問題じゃねえな。第一、たとえ初めての男になれても、相手から心底惚れられていねえんだとしたら、それこそ空しいだけじゃねえか・・・・」
孫市は思わずはっとして、利家の顔を見つめた。利家の震えるような声に、哀しみが滲んでいたからである。
「俺が慶次郎と最後に同衾したのは、もう四年も前のことだ。それまで俺は慶次郎から心底惚れられていた。俺も慶次郎が愛しくて、愛しくてなあ。慶次郎を愛し、慶次郎から愛されることはごく自然なことで、俺は何の疑いもなくそれが生涯ずっと続くものだと思っていた。慶次郎もおそらくそう思っていたと思う。俺以外の男には、身を任せねえと云ってくれたほど、俺を愛していたからな」
利家はそう云って、しんみりと黙り込んだ。
孫市はここでやっと合点がいった。孫市は、慶次に「俺がお前を抱くんだよ」と云ったとき、なぜ慶次が複雑な表情をしていたのかずっと気になっていた(詳しくは5章を参照してください)。
(慶次、お前、あの時、利家に云った言葉を思い出して、お前を抱くと云い出した俺にどう対処していいやらと、当惑していたんだな。そして結局、慶次は俺に抱かれることを選んだ)
孫市は、その時の慶次の心境を思い、たまらない気持ちになった。
激しい葛藤の末、慶次は孫市に抱かれることを選んだだろうことは、孫市にも容易に察せられた。
(もしかしたら慶次は、俺に抱かれることで、利家への思いを吹っ切りたかったのかもしれない。いや、慶次はもうすでに利家との決別を心に決めているのではないだろうか)
それは孫市にとって喜ばしいことのはずなのに、孫市はもの哀しい気持ちになった。
慶次と利家にある哀切の念を思うと、孫市は素直に喜ぶことはできなかった。
「去る者は日々に疎し、か」
そう思っていると、利家はふと呟くように云った。
「本当に、月日ってものは、時に残酷だな」
利家はふっと息をついた。そして次の瞬間、からっと朗らかに笑うと、
「あーあ、なんだか湿っぽくなっちまったなぁ!おめえにこんな愚痴っぽいことをこぼすなんて、全く俺らしくねえぜ。よりによって、恋敵のおめえに云うことじゃあなかったよなあ!」
と云い、グッと伸びをした。
「じゃあ、俺は今度こそ、本当に帰るぜ」
「ちょっと、待ってくれ!」
帰りかけた利家を、孫市は再び呼び止めた。
孫市は、なぜ慶次の心が利家から離れてしまったのか、まだ聞いていなかったことを思い出したからである。だが、利家を呼び止めたすぐ後、孫市はそれを後悔した。
いくら何でもそんなことを利家に訊ねるのは、酷というものである。
「おめえ、ホント、しつこい野郎だな・・・・で、なんだ?またくだらねえ質問をしようっていうんじゃねえだろうな?」
利家はふり返り、怒りを通り越したあきれ顔をした。
「ほら、例のお前との誓約書の件だが、お前も俺と誓約を交わしたことを一筆書いてくれないか、と思ってさ。お前が書いた書面と俺が書いた書面に割り印を押せば、より確かな証拠となるだろ?」
孫市は咄嗟に云って、誤魔化した。
「それもそうだな。じゃあ俺も一月以内に、おめえに一筆書いてくるぜ。・・・・ああ、その書面とは別に、おめえが少しでも慶次郎を粗末にしたら、おめえは俺に慶次郎を速やかに返す、という内容の誓約書も書いてきてくれ。よろしくたのむぜ」
「えっ、なんでだよ!もしもの時は、俺が雑賀衆から脱退するという誓約だけで、十分だろ?!」
利家に突飛もないことを云われ、孫市は慌てふためいた。
「いや、十分じゃねえな。あれは慶次郎が、雑賀衆と関わりがねえことを証明するためのものだ。あれには、おめえが慶次郎を大切にすることを誓う内容が書かれてねえし、第一、あの誓約書はおめえと俺との取り決めというより、俺を通して殿とおめえが約定を交わすためのものだ。だが、今俺が云った誓約書はおめえと俺との間で交わす約定だ。手塩にかけた可愛い甥を、渋々嫌々ながら他の男に任せようっていうんだ。それぐらいのことをしたって罰は当たらねえだろ?」
「利家、それは、慶次と俺の仲を認めてくれるってことか!」
孫市は、思わず叫んだ。
「いや、俺は慶次郎とおめえの仲を認めたってわけじゃねえぞ!勘違いするな。ただ俺は、他のくだらねえ男に慶次郎を取られるよりは、慶次郎に心底惚れているお前に任せた方がまだましなんじゃねえか、と思っただけだ。それに慶次郎は、おめえに惚れているってわけじゃねえしな。慶次郎とおめえの仲を認めるも何も、お前らまだ恋仲にもなっていねえじゃねえか!」
利家はそう云って、嘲笑しながら孫市を見つめた。
(ったく、痛いところを突いて来やがる!)
利家に急所をずばりと云われた孫市が、何と云い返してやろうかと頭をキリキリさせながら息巻いていると、不意に遠くから、
「利家ーー!」
と叫ぶ声が聞こえてきた。
その声を聞いた利家は、
「ったく、来なくてもいいと、あれほど云ったのに!」
と毒ついた。
利家の名を呼ぶ声は次第近づいて来て、やがて雑木林から男が姿を現した。
男は利家を見つけると、息せき切って走ってきた。だが、利家の側に孫市がいるのを見て驚いた顔をし、ぴたりと止まった。
男は酷く不安げな表情をしている。
「と、利家、その人は?」
男は心細そうな声で云った。
「ああ、こいつは慶次郎の疫病神だ。慶次郎に取り憑いて離れねえもんだから、わざわざ追っ払いに来たんだが、駄目だった。すげえ頑固な奴でな」
利家は孫市を横目で見ながら、ニヤリと笑った。
「じゃあ、その人は慶次郎殿の御友人なのか?」
男はホッとした表情で云い、利家の側までやって来た。
「御友人なんていうたいそうなもんじゃねえよ。疫病神だ、疫病神」
利家の言葉に孫市はムッとしたが、男が
「利家!人様に向かって疫病神はいくら何でも失礼だぞ。お前、謝った方がいい」
と云ってくれたので、孫市の心は幾分か和らいだ。
だが、肝心の利家は、
「嫌だね、俺は謝るつもりはねえ」
と云い、そっぽを向いてしまった。
それを見るに見かねた男は、大きくため息をつき、利家の代わりに孫市に謝罪した。
「拙者は丹波長秀と申す者。利家に成り代わり、この通りお詫び致す」
そう云って、丁重に頭を下げた。
「に、に、丹羽長秀!」
孫市は素っ頓狂な声を上げてしまった。
(丹羽長秀といえば、信長の側近中の側近じゃないか!)
意外な人物を間近で見て、孫市は驚いてしまった。
「貴方様は拙者を存じておられるのですか?」
「い、いや、存じておられるってほどではないが・・・・」
孫市はそう云って、ごほごほと咳払いをする。
このまま行くと自分も名乗らなければならないような、危ない雲行きになっているのだが、信長の側近に向かって雑賀孫市の名を出すわけにはいかない。
だからと云って鈴木重秀の名を出しても、ばれてしまうろうし・・・などと思いながら孫市が困窮していると、利家が、
「そいつは烏山重秀っていう慶次郎と同じ牢人だ。そんなことより、俺は腹が減った。長秀、何か食いに行こうぜ」
と云って、長秀の気を逸らせた。
孫市はホッと胸をなで下ろす。
「利家、人様と話をしているって時に、失礼じゃないか。少しの間も我慢できないほど腹が減っているのか?」
長秀はちらりと孫市を見ながら、困惑顔でそう云った。
「ああ、猛烈に腹が減った。今すぐ食いに行こぜ!な?・・・・あの店がいい」
利家は店がある方角を指し、長秀の腕を掴むと、グイグイとひっぱりながら歩き出した。利家に腕をひっぱられた瞬間、長秀はドギマギとした表情をして、カッーと顔を赤くした。
その場面を見ていた孫市は、長秀が利家に恋をしていることを察知した。
(だから利家が俺と一緒にいるところを見て、あんなに不安そうな顔をしたんだな。俺を見て、利家の恋の相手かもしれない、と考えていたに違いない)
その長秀の心境が痛いほど分かる孫市は、長秀に対して親近感を覚えながら、利家と秀長を眺め見た。
だが当の利家は、長秀から恋心を抱かれていることにまったく気づいていないようで、顔を真っ赤に染めた長秀に向かって
「長秀、大丈夫か?ちょっと走り過ぎたんじゃねえのか?おめえ、武士のくせして長距離走るの苦手だもんなあ!」
と云って、わははと笑いながら、長秀の背中をばんばんと叩いている。
孫市は長秀がとても気の毒になった。
見たところ利家は、自分が好意を持たれているということに関して、とても鈍感のようだ。
あれほどあからさまな長秀の態度を見ても、気づかないのだから、利家の鈍感さは慶次と大して変わらないと考えていいだろう。
(まるで昨日までの慶次と俺の姿そのものだな)
孫市は利家と慶次、長秀と自分の姿を重ねて、そう呟いた。
孫市が尚も二人を見ていると、長秀が
「おーい、利家、待ってくれよーー!」
と叫びながら、足早に歩く利家を慌てて追いかけている光景が目に入った。
そして長秀は律儀にも、振り向きざま孫市に軽く会釈をしてくる。
その長秀の姿を見た孫市は、こりゃあ、たとえ恋が実ったとしても、長秀さんは相当利家の尻に敷かれそうだな・・・と思い、長秀に対する同情の念が湧いた。
だが、長秀が利家と仲睦まじそうに何事かを話し、時折嬉しそうな笑い声を上げている姿を見た孫市は、次第に長秀が羨ましくなってきた。そして無性に慶次が恋しくなる。
一度恋しいと思い始めると、その思いは段々強くなり、慶次への恋情はついに抑さえがたいものとなった。
孫市は着物の裾をたくし上げ、慶次の家に向かって一目散に走り出した。