夕昏の客1
南東の風が吹き始めた小田原に、うららかな春が訪れようとしていた。
土塵を舞上げるような強い風が吹くごとに、肌に刺す冷たい空気は緩み、日毎に冬は春の匂いを含んだ大気に押しやられつつあった。あと数日もすれば、桃花の蕾もほころび始めるだろう。
遅めの昼食を取ったあと、小田原城内の屋敷――政宗に住居として与えられている屋敷の自室で、書籍を読みながらのんびりと過ごしていた慶次は、心地よい春の気配に誘われ、いつの間にか眠ってしまっていたようであった。気づいたときにはもう日が落ちかけ、部屋の中は薄暗くなっていた。
「あーあ、せっかくの午後を無駄にしちまった気がするねえ・・・」
慶次はあくびをしながら呟き、大きく伸びをした。
が、すぐに、手に持っていたはずの書籍がないことに気づき、ハッとなって体を起こすと、手で床を探りながら周りを見回した。 だが、いくらも探さぬうちに、書籍が文台の上に置かれているのを目に留め、
「おっと、あった、あった!」
ホッと安堵の息をついた。兼続から贈られた大事な書籍だったからだ。
どうやら眠っている間に誰かがこの部屋に入ってきて、書籍をここに置いてくれたらしい、ということが分かったが、一体誰がこれをここに置いたのだろう、と慶次は首を傾げた。
(孫市たちは朝から出かけていて、確か夜遅く帰ってくると言っていたように思ったが・・・)
今朝、屋敷を出る前に、孫市が、
「今日は遅くなると思うから先に寝ていてくれ」
と言付けて、政宗やガラシャたちと出て行ったことをよく覚えている。
孫市たちがいない今、慶次の部屋に何の断りもなく入れる者は、ここにはいないはずであった。
(おかしいねえ・・・)
気にはなったが、掃除をしに来てくれた者が置いてくれたのだろうと思い、あまり深く考えなかった。
(そんなことより、これからどうしようかねえ。誰もいないんじゃ退屈だしなあ・・・)
思考はすぐに違うほうへさまよい、今夜のことに思いを馳せる。
城下へ出て行って町民と酒を酌み交わして過ごすのも愉しそうだ、とふと思った慶次は、自分の思いついた案に満足しながら立ち上がり、外出するために身支度を始めた。
だが支度を始めてまもなく、ふいに部屋の奥から、
「慶次、出かけるのか?」
といった男の声が聞こえてきて、慶次は仰天した。
人の気配もないところから、いきなり人の声だけが湧いた、という感じだった。
誰だ、と問う前に、薄暗い部屋の奥にいた男は姿を現した。それが孫市だったから、慶次はまた驚いた。
「・・・なんだ、孫市じゃないか。帰って来ていたなら、もっと早く声をかけてくれれば良かったのに」
ホッと息をつきながら言い、慶次は暗い部屋を灯すために行灯に灯を入れた。
室内は暖かな橙色の光りに照らされ、人の表情がはっきり分かるほど明るくなった。
「孫市が戻ったんじゃ、外出は取りやめだな」
慶次は微笑みながら言って、その場に腰を降ろした。
孫市も慶次の近くまでやってきて、腰を降ろした。が、その孫市を見て、慶次は違和感に顔をしかめた。
たしかに姿形を見る限り孫市にしか見えないのだが、纏っている雰囲気が何か違うのだ。いつもなら、帰るなり慶次の体に触れたがり、しつこいほど接吻をせがんでくる孫市が、今日に限って指一本触れようとせず、ただ側に座っただけ、というのも不自然に感じた理由だった。
「・・・あんた、孫市じゃねえな」
じっとその姿を見ていた慶次は、目の前の男が孫市の姿をしただけの別人であると悟った。
もともと孫市にそっくりな男なのか、それとも誰かが化けているのか、はたまたキツネにつままれでもしているのか――慶次には分からなかったが、孫市ではないことは確信できた。
「ククク・・・さすがに我でもうぬを騙すことは難しい」
聞き覚えのある声で言った男はフッと笑い、慶次に思い出す間もあたえず、すぐに姿を消したが、小さな風とともに再び慶次の前に姿を現した。
男は、目に鮮やかな深紅の髪、常人とは思えないような青味かかった肌をしていた。
いかにも妖しげな男を見て、慶次はハッと息を飲み、
「小太郎じゃないか!」
驚きとも喜びともつかぬ声を上げた。
久しぶりに小太郎と再会できた嬉しさで、慶次の心は浮きたった。小太郎とは親密な間柄とは言えなかったが、誰にも手に入れることができない旋風のようなこの男のことが、慶次はとても好きだった。
遠呂智との戦のときは、誰に味方することもなく自由気ままに戦場を渡り歩いている、と風の噂で聞いていた。それを聞いて、いかにも小太郎らしい、と思ったものだった。
そして、遠呂智に与している今の己を見たら、きっと彼はフッと息を吐くように笑い、
「一所にそれほど肩入れするなど、雲のように生きるうぬらしくない」
と言うだろうと考えて、笑いが込みあげてきたことを覚えている。
きっといつかまた再会できる日が来るだろうと思い、この小田原に来たときも、風魔一党のゆかりの地である相模にいればもしかしたら小太郎に会えるのではないか、と期待していたのだ。
(いぜんは北条に仕えていた小太郎・・・。もしここで会ったとしたら、俺とは敵同士になるかもしれねえ)
と思いながらも、それはそれで愉しそうだ、と小太郎が現れるのを心待ちにしていた。
だが北条との戦の最中、ついに小太郎は一度も姿を見せなかった。もう相模にはいないのか、それとも北条とは縁を切ったのか、もしかしたら遠呂智との戦の際に命を落としてしまったのか・・・と慶次は案じていた。
(できたら、生きていて欲しい・・・)
そう願っていたから、小太郎が会いに来てくれたことがとても嬉しかった。
「あんた、やっぱり生きていたんだな」
慶次が感に堪えた声でいうと、小太郎は微かに笑った。
「・・・もしかして、俺の書籍を文台に置いてくれたのは、あんたかい?」
「床に転がっていた。・・・それにしても、うぬはよく眠っていたな。我はずっとうぬの側にいたのだが、少しも気づかなかった。うぬは少し、無防備すぎるところがある」
小太郎にそう指摘されて、慶次は顔を赤くした。不覚にも気配に気づけなかったことと、ずっと寝顔を見られていたという、二重の恥ずかしさがあった。
「あんたも人が悪いな。来ていたのなら、もっと早く声をかけてくれよ」
照れもあって、慶次はそうなじった。
「うぬの寝顔など間近で見たことがなかったのでな・・・。つい見惚れていた」
小太郎らしくもなく、そんなことを真顔で言って、猛獣を思わせる神秘的な美しい瞳で慶次をまじまじと見つめてきた。慶次は、さらに羞恥心を煽られながらも、孫市に扮していたせいで、妙なところまで似てしまったのではないか、と少し心配になった。
「もしかして姿だけでなく、変化した相手の心まで移ってしまうのかい? ・・・それに今気づいたんだが、以前の小太郎は変化の術など使わなかったじゃないか。どうして孫市の姿で俺の前に現れたんだい?
あんたの、今のその姿で出てきてくれたら良かったのに・・・」
慶次は疑問を口にした。
すると意外にも、小太郎は口ごもり、何と言っていいのか分からない、といった表情をした。言葉につまる小太郎など、慶次は初めて見た。やっぱり今日の彼はちょっとおかしい、という確信が高まった。
それからしばらく、小太郎は困惑したように慶次を見ていたが、答えを聞くまで引き下がらないだろう、と思ったのか、やがて諦めたように小さく息を吐くと、
「・・・変化したからと言って、心まで移ることはない。うぬの寝顔に見惚れたというのは、我の本心。それを言ったまでのこと」
少し緊張したような、強張った口調で言った。だが、なぜわざわざ孫市に変化して現れたのか、という理由までは語ろうとしなかった。どうやらそれは黙っていたいらしい。
「・・・言いたくないなら、言わなくてもいいさ」
そもそも、小太郎を困らせるつもりで質問したわけではない。正直言えば、気にならないわけではないが、何にせよ小太郎が訪ねて来てくれたのだ。それで十分だった。
「それより小太郎、俺は今夜ひとりきりでねえ。ちょうど、夕餉をともにする相手を見つけに行こうとしていたところなんだが、あんた、つきあっちゃくれねえか?」
言いながら、慶次は小太郎の返事も聞かず立ち上がった。そして屋敷の西側にある厨房まで行き、下働きをしている男に二人分の夕餉を用意してくれるよう頼むと、酒の入った銚子と杯を二つ並べた膳を持ってすぐに戻ってきた。
「酒は、冷たいままのと温めたのと、どっちが好きなんだい?」
相変わらず慶次は、小太郎の意志を確認しないまま、当然、夕餉の相手をしてくれるものとして話を進めている。そもそも忍を相手に、平然と、夕餉をともにしよう、と言ってくるところからして変わっている。
(全くもって、変な男だな・・・)
と思い、小太郎は苦笑した。
その小太郎の笑みを見て、慶次は不思議そうに首を傾げた。
「何を笑っているんだい?」
「うぬは、本当に変わった男だと思うてな。・・・忍に夕餉を勧めるなど、普通ではあるまい?」
「ふーん、そうかねえ・・・」
納得していないような口調で呟き、慶次は火鉢を引き寄せ、火を入れた。まもなく温かくなってきた火鉢を小太郎の近くに置き、自分もその側に座った。
「春らしくなってきたと言っても、さすがに夕方になると寒くなるな。・・・あんたさえ嫌じゃなければ、酒を人肌程度に温めて呑もうと思うんだが、どうだい?」
「我は、どちらでもかまわぬ。そもそも酒自体、ほとんど嗜まぬ」
「そうなのかい? そりゃあ、意外だねえ!俺なんかより、よほど酒豪そうに見えるけどねえ」
慶次の目が子供っぽく輝いた。またひとつ小太郎のことを知ることができ嬉しい、と思っているのだ。
興味深そうにじっとこちらを見つめている慶次を見て、小太郎は思わず笑ってしまった。そして、こうして慶次と話しているうちにしだいに心の中が温かくなってくるのを感じて、
(このような感情を持つなど、全く我らしくない・・・)
と、自嘲気味に笑い、頭を振った。
小太郎は今まで生きてきてこの方、誰かに特別な想いを抱いたことがない。恋とか愛というものとは、無縁の世界で生きてきた。無論、士分に道具のように扱われ、さげずまれながら生きている忍びの間には、厳しい世界の中を己の身ひとつで渡らねばならぬゆえに、武士の世界とは違った『連帯意識』があることは間違いない。だがそれは、厳しい世を生きる上での必然としての連帯であり、自分がまず生き残るために、他と結びつかざるを得ないという実際的な関係だった。
とはいえ、忍の中にも女忍と情を結び、人並みに恋愛をする者がいないではない。
しかし、風魔一党の頭領である小太郎は、一党の間でも畏怖され敬まわれる存在であり、男も女も自らとは別格の者として小太郎と距離を置いていた。それに加えて、小太郎の容貌があまりにも人外怪奇であったため、その姿を直視することさえできずにいる者も多かった。
そんな状態だから、小太郎と恋愛しようなどという者などいるわけがない。
さらに小太郎も小太郎で、皆から畏怖されることを厭うどころか、むしろ愉しんでいるような男だったから、甘い感情など生まれようがなかったのだ。
小太郎にとっての友は、深山幽谷に住まう狼たちであり、彼らだけが小太郎を理解した。真に心を通わせる相手は狼たちだけだった。長い間、小太郎にとって、人間などせいぜい戯れに相手にする程度の価値しかなかったのだ。
(・・・が、どういうわけか、我はこの男が気になって仕方ない)
自分でもわけが分からないのだが、なぜか小太郎は慶次を無視できなかった。数年前、初めて慶次に会い、少しも己を怖れていない好奇心に満ちた目で見つめられたときから、その瞳が心に灼きついてしまった。以来、小太郎は慶次の前にたびたび姿を現すようになった。慶次には偶然に会ったかのように振る舞ったが、偶然などではなかった。小太郎は狼たちの助けをかりて、つねに慶次の消息をつかんでいたのだ。
慶次もまた、会えるのか愉しみだ、という態度をしてきたので、それも心地良かった。
つかず離れず、という関係は今も続いており、こうして今日も小太郎は慶次に会いにきた。それでいて、未だに互いの指一本さえ触れ合ったことがないのが、何とも奇妙だった。
小太郎には、己と慶次が友であるのかどうかでさえ分からない。ただ時々、無性に会いたくなる男であり、今日訪ねて来たのも、久しぶりに慶次と話がしたくなったからだ。ただ、慶次の前に姿を見せるにあたって、なぜ孫市の姿に変化したのかは、小太郎にも分かりかねた。気づいてみると、体が動き、意志とは無関係に孫市の姿になっていた。『どうして孫市の姿で現れたんだ』と聞かれても、小太郎が答えられなかったのは、答えたくなかったからではなく、自分でも理由が分からなかったからだ。
(考えてみると、前にも同じようなことがあった・・・)
小太郎はふと、慶次が遠呂智軍にいたときのことを思い出した。
慶次が遠呂智に惚れ込んで遠呂智の味方をしていると聞き、一度会いに行ったことがあるのだが、あのときも慶次の前に姿を現す前に、咄嗟に遠呂智の姿に変化したのだった。結局、その姿のまま、遠くから慶次を見ただけでそこから離れてしまったから、慶次には気づかれなかった。
考えてみれば考えてみるほど、あのときの自分の行動も不可解だった、と小太郎は思う。知らぬ仲ではないのだから、変化などぜすそのままの姿で堂々と現れれば良かったのだ・・・。
そんなことを考えていると、
「ほら、酒が温まったぜ。小太郎、盃を持てよ」
ふいに慶次の声が聞こえてきて、小太郎は我に返った。ハッとなった小太郎は、慌てて傍らにあった盃を手に持って、慶次の前に差し出した。
その姿を見た慶次は、一瞬、驚いたような顔をして、ブッと吹き出した。
「お前さんでも、そんな慌てることもあるんだな。今日の小太郎は、いつもとなんか違うねえ」
言いながら、また可笑しそうに笑う。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・」
小太郎も、自分でもいつもと違うと思っているので、慶次に反論できなかった。
それからしばらく小太郎は、慶次に勧められるまま、無言で酒を呑んだ。普段、ほとんど酒を口にしない小太郎は、それが美味いのかどうなのか判断できなかったが、体が徐々に火照ってくる感じは嫌いではなかった。それに何より、目の前で嬉しそうに小太郎を見ながら、ニコニコと酒を呑んでいる慶次の姿を見ていると、心が不思議なほど和み、二人でいるこの空間がとても心地よく感じた。
やがて料理を持った下男が入ってきた。
小太郎の姿を見て、仰天しながらも、かろうじて膳のものを落とさずにすんだ彼は、慶次と小太郎の前に膳を置き、酒瓶を慶次の側に置くと、慌てて逃げるように出て行った。
「すまないねえ・・・」
下男が出て行ったあとを見計らって、慶次が言った。小太郎は、一瞬なぜ慶次が謝ったのか分からなかったが、下男の態度のことを言っているんだな、とすぐに気づいた。
「うぬが謝る必要はない。・・・我は慣れている。気にもしていない」
「あんたを見て怖がる奴は多いが、俺はそれが全く不思議でね。・・・大体、あんたはとても綺麗じゃないか。なぜ怖がるのか全然わからねえ」
小太郎は、呑んでいた酒を噴き出しそうになった。
綺麗だなんて・・・小太郎は今まで誰にも言われたこともないし、自分で思ったこともない。悪い冗談でも言っているのかと思った。だが、慶次の真剣な顔を見る限り、冗談を言ってるようには思えなかった。おそらく慶次は、変わった男が好きなのだろう。
「うぬは・・・・真に変わっている。・・・我といい、遠呂智といい、他の者から怖れられる者を全く怖れぬとは。クク・・・だがそれがうぬらしくもある」
「・・・遠呂智か。遠呂智もあんたと同じように怖れられていたが、俺はあの御仁も美しいと思った。・・・もちろん、容姿だけで惹かれたわけじゃねえけどな」
そう言って、寂しそうに笑った慶次は、しばらく過去を思い出すような目をしていたが、やがて想いを吹っ切るように首を振ると、まっすぐ小太郎を見た。
「ところで、小太郎は遠呂智との戦いのあと、どうしていた?」
あからさまに話題を変えたところから見て、あまり遠呂智の話題は話したくないのだろう、と小太郎は察した。その気持ちを推し量り、あえて何も聞かず、慶次の話に乗ることにした。
「我は、あちこち彷徨っていた・・・。だが、四月前に相模に戻った。我の狼が恋しがったゆえ」
そう言ったが、それは半分事実で半分嘘だった。
友である狼が故郷・相模の山々を恋しがったのは本当だが、それ以上に小太郎が慶次を懐かしく思ったから、ここに帰ってきたのだ。相模の地に、金色の鬼が現れて北条に戦をしかけている、と噂に聞いた小太郎は、その金色の鬼はおそらく慶次に違いない、と思いやってきた。
もちろんそんなことは知らない慶次は、小太郎の答えが気に入ったようで、
「へえ、狼ねえ」
と呟いて、ニコニコ笑った。
慶次は正直、『我の狼が恋しがった』からと聞いて少し驚いたが、自分の友である松風を思い浮かべて、小太郎の気持ちにすぐさま共感できた。――馬と狼。友とする相手はそれぞれ違うが、その狼は小太郎にとって、己にとっての松風のようなものなのだろうと思った。