我無限愛君3

 年が明けて、二日。江戸城に登城する日がやってきた。
 五つ半(午前九時)から開始される家康との謁見のために兼続は早めに屋敷を出たのだが、兼続が到着したときにはすでに、大広間はつめかけた大名とその名代らで、ごった返している状態であった。
 兼続は彼らを見て、慶次の助言どおり裃を新調しておいて本当に良かったと思った。一般的に裃は麻で作られていることが多く、兼続が米沢から持参した裃もそうであったが、ここでは麻の裃を身につけている者などほとんどいなかった。多くの者が上質な綿でできた裃を着ている。慶次が、あの裃を『田舎武士と宣言しているようなもの』と言っていた意味が、兼続もようやく解った。麻の裃は全くの流行遅れで、あれを着て登城していたら間違いなく悪目立ちしてしまったであろう。
 その事態とは反対に、今の兼続は良い意味で目立っていた。兼続を見たほとんどの者は、目を見張った。口には出さずとも、慶次が贈ってくれた裃に心を奪われているのが分かった。中には「絹の裃ですか。色といい、質感といい、見事ですな」と褒める者もいた。
 服装を褒められることなど、今まで皆無であった兼続は、何と受け答えればいいのか解らず、適当に礼を言ってその場をやり過ごしていた。
 そのときだった。どこからか刺すような視線が向けられていることに気づいて、兼続は顔を上げ、周囲を見渡した。
(あれは・・・)
 視線の主は政宗であった。兼続より何列も前に座っている彼は、わざわざ振り返り、兼続を威嚇するような眼差しで見ていた。洒落者で評判の高い政宗も、深い緑色をした絹の裃をまとっている。政宗が兼続の裃に反応しているのは明らかであった。
(だが、ただ裃に反応しているにしては、敵意剥き出しなのが気になる)
 何か政宗の気に障ることをしただろうか。私には思い当たらないのだが──と兼続がいぶかしんでいる内に、家康が謁見の間に姿を現したため、そこでうやむやになってしまった。
 家康の前に進み出て、挨拶をする順番が兼続に回ってくるころには、政宗に睨まれたことなど、兼続の脳裏から消え去っていた。

 家康への年賀挨拶が終わったときには、すでに昼八ツ(午後二時)を過ぎていた。家康との会話は円滑に進み、思っていた以上に良い雰囲気で挨拶を終えることができて、兼続はホッと肩の荷を下ろしていた。
 本丸の玄関に通じる廊下に出て、今日のことを慶次にどう報告しようかなどと考えていると、こちらに向かってやって来る政宗の姿が見えた。
(政宗は、私よりずっと先に謁見を済ませたはずだが・・・。今まで何をしていたんだ?)
 兼続は不思議に思ったが、関わると面倒なことになりそうだと思い、黙って通り過ぎようとした。
 だが、政宗がそれを許さなかった。
「兼続! 貴様、陪臣の分際で挨拶もなしにわしを素通りするなど、無礼が過ぎるぞ!」
 すれ違ってから間もなく、カッとなった政宗が、大声で怒鳴りつけてきた。
 周りにいた大名や名代らは、何事が起こったのかと、立ち止まって、政宗に怒鳴られた兼続を見ていた。
 喧嘩腰の政宗に兼続は内心ムッとなった。しかし、他の国の大名らが見ている手前、声を荒げるのは得策ではないと思った。ましてここは江戸城内である。兼続はつとめて冷静な顔を装い、政宗を見た。
「・・・よくよく見れば見覚えがあるような。おお、これはこれは、伊達殿でしたか。大変失礼しました。私は戦場での伊達殿の姿しか知らぬゆえ、貴殿であったと気づきませんでした」
 これを聞いた政宗はまたまた怒り出した。伊達様、ではなく伊達殿と言われたことが気に障ったようだ。兼続としては、城内での礼儀を重んじて「伊達殿」と言ったのであるが、城内でなければ「政宗」で十分だ。
「貴様の目は節穴か! 戦場のわしと、今のわしとそれほど違いはあるまいっ! すぐにわしと気づいて、貴様は故意にわしを無視しおったな、馬鹿め!」
 わんわんと犬が吠えるように怒鳴った政宗を見て、兼続はフッと笑った。
「私がよく知る伊達殿は、戦場では勇敢にて、たかだか挨拶をしなかったというだけのことで、粗野な山犬のように吠える御仁だと考えていませんでした。ゆえに貴殿が、伊達殿であるとすぐに気づかなかったのです」
 兼続の痛烈な皮肉に、政宗は激高した。しかし、次から次へ集まってくる野次馬たちを見てふと我に返り、ここでこれ以上、怒りを爆発させてはいい恥さらしになってしまうと思った。政宗は懸命に怒りを押し殺した。
「兼続、ちょっと来い。貴様に聞きたいことがある」
 政宗は兼続の袖を掴み、ちぎれるような力で引っぱった。
「どうしても私と話したいというなら、話を聞こう。だが、袖を引っぱるのは止めてくれ」
「ふん!そう言って逃げる魂胆であろう?」
 政宗は信用していない目つきで兼続を見た。そしてますます強く袖を引くと、構わず歩き出した。兼続は仕方なく、政宗のあとをついて行った。
 政宗が兼続を解放したのは、本丸を出て、さらに中雀門、中の門、三の門を出た下乗橋の手前であった。ここ下乗橋をわたって騎乗してきた馬を受け取ることになっている。
 政宗の姿を見た伊達家家臣は、すぐさま政宗の馬を引いてきた。政宗は多くの家臣を連れてきたらしく、馬の周りには五人の家臣がいた。
 少し遅れて、兼続の下男も馬を引いてきた。明らかに士分ではないその下男を見て、政宗は奇妙な顔をした。
「貴様、家臣はどうしたのだ?」
「ひとりも連れてきていない。この者はよく働いてくれるし、別に困ってはいない」
 政宗は、ははあと心得た顔をした。
「上杉の財政はかなり逼迫しているという噂は、どうやら本当のようじゃな」
 兼続は、肯定も否定もしなかった。
「そんなことより、私に聞きたいこととは何だ?」
「慶次のことだ。江戸に連れてきているのであろう?」
 兼続は不愉快な気分になった。政宗が慶次に懸想していることは、ずいぶん前から知っていた。できれば二人を会わせずに置きたいと思っていたのだが、政宗がそうさせてはくれないようだ。
「慶次は連れてきていない」
 無駄な抵抗と分かっていながら、兼続は嘘をついた。
「そのような嘘、わしに通用すると思っているのか!」
 政宗はまたもや吠えた。が、兼続はそれを無視してさっさと馬に騎乗し、出発の合図を送った。
「兼続、無礼じゃぞ!」
 政宗も汗血馬に騎乗し、すぐさま兼続を追いかけた。
 兼続は、逃げてしまいたいと思ったが、上杉家の屋敷の場所は調べればすぐに分かってしまうことだし、とにかく江戸城の敷地内から出ないことには、馬を走らせることすらできない。政宗はすぐに兼続に追いつき、兼続が騎乗している馬の脇にぴったりと貼り付くようにして馬を歩かせた。
「とにかく、慶次が江戸におることは分かっておる! 貴様のその真新しい絹の裃が何よりの証拠じゃ。大方、慶次に言われて新調したのであろう」
 兼続はギョッと政宗を見た。なぜ分かったのだろう? 兼続の驚きぶりを見て、政宗はやはりな、というようにしたり顔をした。
「そのように趣味の良い裃を、貴様が選べるはずがない。・・・となれば、慶次しかおらぬと思うたのよ」
 貴様は趣味が悪い、と遠回しに政宗に言われ、兼続は腹が立ったが、少なくとも衣装については自分でもとりたてて趣味が良いとは思っていないので、反論できずに押し黙った。
「とにかく、貴様がいくら否定しても慶次が江戸にいることは分かっておる!・・・聞きたいことがあるゆえ、近いうちに伊達の屋敷に来い、と慶次に伝えておけ。屋敷の場所はここじゃ」
 そう言って、政宗は屋敷までの地図を兼続に突きつけた。
「慶次に何を聞くつもりなのかは知らぬが、慶次に用があるのはお前なのだから、お前が慶次を訪ねるのが道理であろう。・・・と言っても、お前が上杉の屋敷を訪ねて来ても、中には入れぬつもりだがな」
「どこまでも口が減らぬ奴め」
 政宗は兼続に突きつけていた地図をさっと懐に戻し、兼続を睨んだ。
「そういうことなら、もうよい! 貴様には頼まぬ。孫市を遣わせて、慶次をわしの屋敷に連れてくれば済む話じゃ。孫市であれば、貴様がどれほど邪魔をしようと、慶次も無下にはせぬであろう。兼続、貴様は慶次について来なくて良いからな。むしろ付いて来られては邪魔じゃ!」
 これを聞いた兼続の顔色が変わった。兼続にとって孫市は、最も慶次に会わせたくない男であったからだ。
 慶次は、自分の過去の恋愛についてかなり明け透けに話す質で、孫市とつきあっていた頃の事もたびたび耳にしていた。兼続は、自分が度量の大きい男であると慶次に思ってもらいたいがため、孫市の話を聞いても平然とした顔を装っていたが、内心、心穏やかではなかった。
 慶次の話から察するに、慶次と孫市は大恋愛をした間柄であったことは、兼続にも想像がついた。それでも結局、二人に別れが訪れ、めぐり巡って、今、慶次は自分の元にいる・・・。
 もしかしたら慶次はいつか、自分の元からも去ってしまうのではないか、と考えずにはいられない。それを思うだけで胸が痛いほど締め付けられた。今の兼続には、慶次のいない人生など考えられなかった。
「孫市と聞いて、さすがに動揺しておるようだな」
 いい気味じゃ、というように政宗は笑った。
「最初から大人しくわしの言うことを聞いておれば、慶次に孫市を引き会わせずに済んだかも知れぬものを・・・。言って置くが、今更、貴様が何を言おうと、わしは意志を変えぬ」
 そう言ったかと思うと、政宗は汗血馬の手綱を引いて、馬首を返した。
「政宗、待て!」
 無駄だとは分かっていたが、兼続は叫ばずにはいられなかった。
 政宗は一瞬、兼続をちらりと見たが、そのまま押し黙って、走り去ってしまった。その政宗を家臣らが取り囲むようにして守っている。
 今更、後を追っても、彼らに追い返されるであろうことは分かり切っていた。


 慶次の視線は、心なしか不機嫌な顔をしている兼続に向けられている。屋敷に戻ってきてからというもの、ずっと様子がおかしい。兼続は漢籍を持ってはいたが、全く読んでいなかった。頁を捲る手が動かないのである。
 家康嫌いの兼続のこと。謁見の際、何事かあったのではないかと慶次は考えた。だが慶次は、兼続のほうから何があったのか話す気になるまで、あえて何も訊かずにいようと思った。家康との間に何があったにしろ、兼続は自分の発言の責任をすべて自身で負う覚悟で家康に対したのであろうし、たとえ親友の間柄といえども、それについてあれこれ詮索し口を挟むなど、絶対にやってはいけないことだと思っているからだ。
 慶次がそんなことを考えているとは思っていない兼続は、このとき、どうすれば慶次と孫市を会わせずに済むか、ということばかりに気をとらわれていた。
 一番手っ取り早いのは、今日、政宗に会った時のことをすべて慶次に話した上で、
「孫市とは会わないでくれ。政宗にも会わないでくれ」
 と頼み込むという方法だが、そんなことをしたら、自分は嫉妬深く度量の小さい男だと自己申告しているようなもので、どうしても慶次に言い出せなかった。
 慶次は自分の大切な伴侶ともいえる男だが、恋人の関係にあるのをいいことに、過度な束縛をしてはいずれ自分の元から去って行ってしまう。慶次の性格から、そう兼続は読んでいて、慶次が過去に付き合ってきた男たちへの煮えたぎるような嫉妬心は、今までできるかぎり隠してきた。
 だが、いざ孫市を前にしたらその嫉妬心を隠せる自信は全くない。あの男が慶次の隣にいる姿を想像しただけでも、沸々と対抗心が湧いてくるといった状況なのだから、自身の嫉妬深さはもう救いようがなかった。
 兼続は大きくため息を吐いた。
 結局、孫市に対して何の打開策も浮かばぬまま、慶次と下男・十兵衛の三人で夕餉を取り、気づけばもう宵五つ(午後八時)を過ぎていた。
「そういやあ、兼続」
 相変わらず兼続がぼーっとしていると、下男と膳を片づけていた慶次が、布巾で手を拭きながら兼続の側に座ってきた。
「兼続が江戸城に登城している間に、俺はちょっと江戸の町をぶらぶらしていたんだが・・・隅田川の側に、推古天皇の時代に建立されたと言われている、有名な寺があるだろ?」
「浅草寺か?」
「そうそう、それそれ」
 慶次は大きく頷いた。
「その寺、徳川家の援助金で最近新しい伽藍が造られたらしいんだが、多くの参拝客で大変なにぎわいだと町人から聞いてよ。・・・家康公が関わっているから、もしかしたら兼続は気が進まねえかもしれねえが、良かったら明日、いっしょに見物に行ってみないか?」
「寺の見物か・・・」
 兼続の頭にふっと良い案が浮かんだ。
(慶次と孫市が会わないよう、寺見物を口実にしばらくここを留守にするのが一番かもしれないな)
「浅草寺の見物も良いが、どうぜならその足でもう少し遠くまで行って寺院巡りでもしてみないか? しばらくこれといった用事もない。三、四日留守にしても問題ないだろう」
 兼続からの思わぬ提案に、慶次は驚いた顔をした。
「いいのかい? 宿代かかっちまうだろ?」
「鎌倉はどうだ。鎌倉なら、私の友がいる。彼は小さな寺の住職をしているのだが、久しぶりに会いたいし、あの御仁なら喜んで私たちを滞在させてくれると思う」
「鎌倉かぁ・・・」
 慶次の顔に嬉々とした表情が浮かんだ。
「そりゃあ、いいねえ! 兼続さえ良ければ、俺に断る理由はないぜ」
 慶次が喜ぶ顔を見て、兼続も嬉しくなった。孫市を避けるために提案したことだが、思いもかけず小旅行をするきっかけができて、本当に良かったと思った。
「よし、決まりだな。明日はここを早めに発って、浅草寺を参拝してから、鎌倉へ向かおう。十兵衛に留守を任せ、お前と私の二人だけで行けば、夕刻には鎌倉に着くだろう」
「浅草寺・・・構わないのかい?」
「ああ、徳川家が関わっているといっても、それによって寺が汚れるわけではない。・・・それに家康との謁見は、なかなか良かった。上杉家に対し、嫌みのひとつでも言ってくるのではないかと覚悟していたのだが、今日の家康は始終和やかで拍子抜けしたほどだ」
「そうかい。そりゃあ、良かった」
 兼続と家康の謁見は上手く行かなかった、とばかり思っていた慶次もまた、それを聞いて拍子抜けしたが、表情に出さずにおいた。
「家康は言葉にこそ出さなかったが、お前が贈ってくれた裃を、かなり気にしていた様子だった。・・・他の大名たちも、私の裃姿を見て目を見張っていた。これで間違いなく、上杉家の威厳は保たれたと思う。すべて慶次のおかげだな」
 褒められた慶次は、顔を赤くした。
「俺は大したことはしちゃいないさ。どれほど裃が立派でも、似合わなけりゃみっともないだけだし、皆が兼続を見て目を見張ったのも、それが似合っていたからだろ? 俺の贈った裃は、もともと兼続が持っている魅力を引き出す道具にすぎない」
 慶次は照れくさそうに、頬を掻きながら言った。兼続はそんな慶次が可愛くて仕方がない。
(照れているお前が可愛いななどと言ったら、慶次は機嫌を損ねてしまうかもしれないがな・・・)
 そう思いながら、兼続は慶次を抱きしめた。背中に流れている長い髪をかき分けて、うなじに接吻をする。慶次はぴくりと反応した。
「明日、早いんだろ?」
 慶次は笑いながら言ったが、兼続は止めるつもりはなかった。昨日、ほとんど一日慶次を抱いて過ごしたばかりだというのに、まるで十六、七の少年のように、欲望は収まらなかった。

「明日の朝に響かないように、優しく抱く」
 と慶次を説き伏せて、兼続は慶次とともに寝室へ入った。
 このとき兼続は、孫市への警戒を解いていた。孫市がこの屋敷に来るとしても、明日以降だろうと思い込んでいたため、すっかり安心しきっていた。
だが、それが間違いであった。孫市の行動力を甘く見過ぎてしまったのだ。
 慶次を伊達上屋敷に連れて来るよう政宗から依頼された孫市は、すぐにそれを引き受けた。慶次に会えるなら大歓迎であったし、慶次と復縁したいとかねがね考えていた孫市にとっては、絶好の機会であった。
(兼続の野郎、俺と慶次を会わせたくないばかりに、明日まで放っておいたら、慶次を連れてどこかに逃げてしまうかもしれないな。・・・絶対にそうはさせないぜ)
 そう考えた孫市は、夕餉を取るとすぐに伊達屋敷を出た。念のため、銃も持っている。できるだけ使わないようにするつもりだが、いくら呼んでも慶次が気づかず、上杉の屋敷から出て来ない場合は、空に撃って自分が来ていることを慶次に知らせるつもりであった。
(俺が屋敷の外にいると気づいたら、慶次は絶対に出てくる)
 孫市にはその確信があった。
 ちょうど兼続が布団の中で慶次の乳首に舌を這わせているとき、孫市は上杉屋敷に着いた。門の前で下馬して大きな木戸を叩くと、中から男が出てきた。孫市を見上げて、その男は慌てたような顔をしたが、孫市は構わず言った。
「慶次を訪ねてきた。雑賀孫市が来たと言ってくれれば、すぐに分かる」
「へ・・・へい」
 下男の十兵衛はそう返事をしたが、兼続から「もし雑賀孫市という男が訪ねてきたら、慶次がいるとは絶対に言わず、慶次を呼んでくる振りをして私に知らせろ」と言われていたため、すぐに兼続に知らせに向かった。
 しかし、肝心の兼続は慶次と同衾の真っ最中。そんな場所へ入って行くわけにもいかず、彼は寝室の前で途方に暮れてしまった。
 一方、孫市はなかなか出てこない慶次を待ち続け、痺れを切らしていた。慶次が姿を現さないのは、自分がここにいることを慶次は知らされていないからだと考えた。
(あいつの仕業だな)
 兼続の顔を思い浮かべて、孫市は歯ぎしりをした。
 孫市は門の前に馬をつなぐと、塀に手をかけて身体を乗り上げた。誰も見ていないことを確認し、そのまま塀を越え、玄関前まで押し入った。そして大きく息を吸うと、叫くように言った。
「慶次! いるんだろ? 会いたいんだ、出てきてくれないか!」
 寝室は屋敷の奥まった場所にあったが、孫市の声は慶次の耳を捉えた。
 兼続の背に腕を回し、兼続が与える愛撫に身をよじらせていた慶次は、ふいに動きを止めた。
「孫市だ」
 兼続はギョッとなった。兼続は慶次に夢中で、孫市の声が聞こえていなかったのだ。
「なにっ」
 兼続は反射的に慶次の腰を強く掴み、慶次を押し止めようとしたが、無駄であった。
「すまねえ、兼続。興を覚ましちまって申し訳ねえが、孫市が来ているみたいなんだ。外は寒いし、放っておくわけにはいかない」
 慶次はきっぱり言って、布団から身を起こした。
 こういうときの慶次は、思わず身体を竦ませてしまうような迫力があった。それに加え、自分よりも孫市を優先するかのような慶次の言動に、兼続は声を発することもできぬほどの打撃を受けていた。