秘め事21

「そうだ、しまった!」
 鍋や野菜を入れた袋を持った慶次と共に意気揚々と外に出た左近は、肝心なことを忘れていたのを思い出して素っ頓狂な声を上げた。
「どうしたい?」
 突然、声を上げ立ち止まってしまった左近を、慶次は驚いた表情で見た。
「そういえば、ここまで歩いて来たもんだから馬を連れていなかったことを、今頃になって思い出しましてね。慶次殿は馬を二頭、持っていませんよね?」
「まあ、持っちゃいねえが、心配することはねえよ。左近殿も俺と一緒に松風に乗ればいい」
「でもなあ。いくらなんでも、それは・・・・」
 武士にとって馬は非常に特別なものである。
 ましてや愛馬となると、よほどのことがない限り、他人を乗せたり貸したりすることはしない。一緒に騎乗するなどもってのほかだ。それを良く分かっている左近は、そんなことはとてもできないと恐縮した。
「なあに、そんなに畏まることはねえさ。それに左近殿を乗せるか乗せないかは、俺が決めることじゃねえ。それは、松風が決めることだ。松風が構わないと思うなら、一緒に乗って行けばいい。まあ、もし松風に断られたら、そん時はすまねえが歩いて山に登ることになっちまうがな」
「まあ、歩いて行くのは別に構わないですが・・・」
 馬が決めるだと?可笑しなことをいう御仁だな、左近は思いながら曖昧に答える。
 慶次が言っていることが理解できず、左近は首を傾げながら慶次の後に付いて厩へ向かった。
 だが厩について間もなく、なるほどこういうことかとすぐに分かった。
 左近が厩に入って行くと、松風はまるで品定めでもするかのように、じろじろと左近を凝視し始めたのである。
 しばらくの間、左近と松風の睨み合いが続いたが、やがて松風は気に入ったとばかりに高く嘶き、左近の肩を鼻面でドンと強く突いてきた。
「どうやら左近殿は、松風に気に入られたようだねえ」
 慶次は嬉しそうな顔で言って、松風にひょいっと跨った。
「松風の承諾も得たことだし、さあ、左近殿も遠慮無く乗ってくれ」
「お言葉に甘えて、俺も乗せてもらおうと思うのだが・・・・」
 慶次の言葉を受けて、いざ松風に乗ろうと思った左近は、しばらくの後、しどろもどろに答えた。
 松風に乗ろうと思ったとき左近は初めて気づいたのだが、松風の背には鞍がないのだ。鞍がないということは、当然、足をかける鐙(あぶみ)もない。
慶次は巨体の上、それに慣れているため、鐙がなくても軽々と松風に跨ることができるのだが、松風のような巨馬に鐙なしで跨ることはさすがの左近でも困難であった。
 だが左近は恥ずかしくて、慶次に手助けして欲しいと素直に言えなかったのである。
「ああ、これは気が利かなくてすまなかったねえ。鞍をつけるのを松風があまり好まねえものだから、戦の時以外はつけねえようにしてるんだ」
 松風の側に立ったまま、途方に暮れた顔をしている左近を見て、ようやくそのことに気づいた慶次は、すまなそうな顔をしながら左近が跨るのを手助けするために、馬上から手を差し出した。
 左近は羞恥のあまり顔から火が出そうだった。
 心の中で密かに、己はなかなかイケてる男だと自画自賛している左近にとって、男に手助けされることは、恥以外の何ものでもなかった。
 だが、一瞬ためらったすえに慶次の手を取った。
 手を取ったとたん、たちまち強い力でぐっと引き上げられ、左近は軽々と松風に跨ることができた。男なら思わず嫉妬してしまうほどの強靱な力を見せつけられ、左近は自惚れた心をへし折られた気分になり、ますます顔を真っ赤にさせた。
「左近殿、この辺は坂が多いから安定が悪くなる。落馬しねえように、俺の腰につかまっててくれねえか。むさくるしい男の腰につかまるのは嬉しくねえだろうが、しばらくの間、我慢してくれ」
 だが左近のそんな思いに気づかない慶次は、左近が自分の後ろに跨ったことを確認すると、さらに羞恥を煽るようなことを言ってきた。
(大の男が二人で馬に乗っているだけでも十分恥ずかしい構図なのに、その上腰を抱けってか!)
 左近は、冗談じゃねえぜ!と叫びたい気持ちに駆られた。
 しかし、慶次が己を気づかって言ってくれていることが分かるだけに、それを突っぱねることができない。こんな思いをするなら、馬に乗ってここまで来れば良かったと激しく後悔しながら、左近は半ばやけくそになって、慶次の腰にがしっと腕を回した。
 左近が思いの他強く腰につかまったためか、慶次は左近の方を振り返り、一瞬、おや?という表情をしたが、
「では、行くとするかい。今日は暖かい日和だから、雉を仕留めやすいかもしれないねえ」
 すぐにのんびりした声で言って、松風を歩かせ始めた。


 歩き始めて間もなく、左近はさらに恥辱を味わうこととなった。
 筋骨逞しい二人の男が共に巨馬に跨っている姿はとても目を惹くようで、道を行き交う人々が自分たちの姿を興味深げに眺め見ては、何かこそこそと話している場面に何度も出くわした。
 慶次の同僚に会ったときはもっと厄介で、必ずと言っていいほどニヤニヤ笑いながら話しかけてくる。中には、
「これはこれは前田殿、ずいぶんと仲睦まじいご様子ですな!」
 などと冷やかし声まで上げる者もいて、恥ずかしいことこの上ない。
 この分では、おそらく明日までに、自分たちの噂話が相当広まってしまうに違いない。当然、三成の耳にも入るだろうと思うと、左近は何ともやりきれない気持ちになった。
 だが慶次はこんな状態に遭っても、少しも動じていないようだ。左近はその姿に劣等感をくすぐられ、苛立ちを覚えた。
「慶次殿はからかわれても、気にならないようですね。平然としているじゃないですか」
 劣等感とともに左近が訊ねると
「いや・・・平然ってわけでもねえよ。まさかこんなに注目を浴びちまうとはなあ」
 慶次は照れたように言って、指で頬を掻く仕草をした。
 そう言われて見ると、なるほど、慶次の耳が薄紅色に染まっている。正面を向いていて、残念ながら顔までは窺えないが、おそらく頬もポッと桃色に染まっているのだろう。
(おいおい、こりゃあ、なかなか可愛いじゃないか。超然として見える慶次殿も、実は俺と同じように恥ずかしいと感じていたのか)
 左近は、へえ・・・・と妙な感心してしまう。慶次に対して親近感が湧いてきて、このでかい図体をした男がなんだか急に可愛らしく思えてきた。
「左近殿もこういう時、恥ずかしいなんて思うのかい?」
 慶次も気になっていたのか、ためらいがちに訊ねてきた。
「そりゃあ、思いますよ。さっき冷やかしを浴びた時は、顔から火が出るほど恥ずかしかったですからね」
「そうなのかい?そりゃあ、意外だねえ!てっきり俺は、左近殿はそんなことに動じない御仁だと思っていたもんだから、ちょっと驚いちまったよ」
 と言い、この後も、へえ、そうだったのか・・・などと独り言を呟いている。
 それを聞いた左近は、急激に笑いが込みあげてきて、思わずブッと吹き出してしまった。 自分たちは互いに、同じ勘違いをしあっていたということに気づいたからである。
 慶次も、左近の笑い声につられたようにブッと吹き出した。そしてついに二人は顔を見合わせて、豪快に笑い合った。
「なあ、左近殿。もう俺たちは十分人目を惹いちまっているんだ。こうなったら、いっちょ松風を走らせて、もっと目立ってやろうじゃねえか!」
 しばらく二人で笑い合った後、慶次は悪童めいた表情で言ってきた。
「おっ、いいね!俺もちょうど、スカッとしたい気分だったんでね」
 慶次と共に大声で笑い、すっかり意気投合した左近は、今更、慶次に敬語を使うのも何だか可笑しく思えてきてくだけた調子で答えた。
 だが左近は、ややあってから重要なことを思い出した。
「しかし、この通りは人の往来が多いから、緊急の用がある場合を除いて馬を走らせちゃいけない決まりじゃなかったか?確か兼続がそんなことを言っていたぞ」
「まあそうなんだが、その決まりを破るから面白いんじゃねえか。ちょうど昼時で、人なんか大して歩っちゃいねえし、どうだい、ここをかっ飛ばしてみたくはねえか?まあ、誰かに見咎められたら、明日あたり兼続に呼び出しを食らって、こってり絞られる可能性はあるがな」
「そうなったら俺も慶次殿と一緒に、兼続殿に怒られる羽目になるのか?」
 左近は笑いを含ませた声で言った。それはそれで何だか面白いじゃないか、という気分になっている。
「おそらく、そうなるだろうねえ。お前さんは客人だが、兼続はたとえ客人でも、大目に見る性格じゃねえからな。覚悟しておいたほうがいいぜ」
「ま、もし兼続に呼び出しを食らったら、その時はどこかにずらかっても良いな」
 その時の兼続の苦々しい顔を想像して、左近はクッと喉の奥で笑った。
 だがその左近の言葉に、慶次は冗談じゃない、とでも言いたげな顔を向けた。
「いや、呼び出しを食らったらその日のうちに伺候した方がいいぜ。次の日になると、もっとこってり絞られる羽目になるからな。普段の兼続の優しげな顔に騙されちゃいけねえ。兼続を本気で怒らせるとすげえ恐ろしいぞ。表情がスッとなくなってな、能面のようになっちまうんだ。その時醸し出す冷ややかな空気が、怖ろしいのなんのって」
 その時のことを思い出したのか、慶次がゾッとした顔をして、ぶるっと身体を震わせるものだから、左近は可笑しくなって吹き出した。
 戦場での慶次は、敵味方問わず、軍神の如き武士だと称され、畏怖される男である。その男が兼続に叱られて震え上がっているなんて、誰が想像できるだろう。
 兼続の前で、巨体を縮込ませてしょんぼりしている慶次を想像して、左近はいよいよたまらなく可笑しくなった。
「それにしても慶次殿は一体何をやって、そこまで兼続殿を怒らせたんだ?」
 ふいに左近は気になって、訊ねた。
「いやな、先月、春日山城内で馬揃えの儀式が行われたんだが、その時、俺は牛に乗って参加してな・・・」
「はあ?馬揃えの日に牛に乗った?!どうして、また!」
 あまりの突拍子もない話に、左近は素っ頓狂な声を上げた。
 馬揃え(観兵式)といえば、自慢の名馬を美しく飾り立て参加するものである。
 武士なら誰もが喉から手が出るほど欲しくなる、松風ほどの名馬を持っていて、なぜ牛に乗って参加しなければならないのか。左近にはさっぱり理解ができなかった。
「松風が馬揃えに出るのを嫌がったからさ。松風はとにかく自尊心の高い馬で──まあ、俺はそこが気に入っているんだが、馬揃えに参加して、一種、見せ物のダシとして自分が扱われるのを嫌がったんだ。そこで兼続に『松風が嫌がるから、俺は馬揃えに参加しねえ』と言ったのさ。そしたら兼続はこう答えた。『上杉家ではまだ新参者のお前が、家中で行われる儀式に参加しないなどという勝手なふる舞いをしたら、古くから上杉家に仕える者たちが納得しない。松風が嫌がるなら他の馬に乗って参加して欲しい』とな。兼続にそう言われて、俺はほとほと困まっちまってなあ。他の馬と言われても、俺は他の馬など持ってねえし、第一俺は、松風以外の馬には乗りたくねえ。そこで苦肉の策として、近所の農家から借りてきた牛を飼い慣らして、馬と同じように進退できるように仕付けたのさ。馬揃え当日、その牛を見栄えよく飾り立てて、それに乗って参加したんだが、もうその時から兼続は顔を真っ青にして、馬揃えの間中、俺をずっと睨んでいてなあ。その顔がすげえおっかねえんだ。なまじ顔が整っているだけに、沸々と怒りを溜め込んでいる時の表情は壮絶なものがある。だけどな、その時怒っていたのは兼続だけだったぜ。他の者は皆、俺が牛に乗っている姿を見て爆笑していたし、普段あまり笑わない景勝公も、この時ばかりは相好を崩していたぐらいだ。
 で、馬揃えの後、俺は兼続の屋敷に呼び出されて、激しく叱声されちまってなあ。『慶次、この愚か者め!お前はなぜそんなに馬鹿なことをしでかすんだ!私はお前に馬で参加しろと言ったはずだ。牛で参加するなど言語道断。罰としてここで一週間、謹慎することを申しつける!』と、こうだ。結局それから一週間、俺は兼続の屋敷で肩身の狭い思いをしながら過ごしたんだが、俺は今もって、何故あんなに兼続が怒ったんだかさっぱり分からねえんだ。景勝公からは『実に面白いものを見せてもらった。とても愉快だったぞ』との言葉を頂いたぐらいだぜ。確かに俺は、馬鹿なことをしたかもしれねえが、そんなに怒るほどのことでもねえだろ?なあ、左近殿はどう思う?」
 抱腹絶倒してしまうほどの珍妙な話を聞いた左近は、お腹を押さえ先ほどからずっとヒーヒー笑っていたものだから、慶次の質問にすぐ答えることができなかった。
 だが兼続が慶次に恋をしていること知っている左近は、その時の兼続の心境をある程度推察することができた。
 要するに兼続は、慶次が道化師か何かのように皆の見せ物になっていることに腹を立てていたんじゃないだろうか。愛する者が皆の視線を浴びて、笑い者にされるのは確かに気分の良いことではない。
 それに只でさえ目立つ容姿をしている慶次だ。上杉家中には、慶次に憧れている若者も多いと聞く。その慶次がさらに注目を浴びることになったら、恋敵を増やすことになりかねない。
 兼続としてみれば、二重の意味で面白くない出来事だったに違いない。
 謹慎処分にしても、本来なら慶次の自宅でさせれば済むことで、何もわざわざ兼続の屋敷でさせなくても良い。兼続は何か名目を作ってでも、慶次を自分の側に置きたかったのだろう。
(その名目が己の屋敷で謹慎処分とは、兼続、案外したたかな奴じゃないか。それなら何も、俺が介入しなくても自力でどうにかできるんじゃないのか。ま、だが一応、すごーく遠回しに兼続の気持ちを伝えてやるか)
「兼続は慶次殿が皆の笑い者にされているのを、見るに堪えられなかったから、慶次殿をつい叱ってしまったのではないだろうか。慶次殿だって兼続が皆の笑い者にされていたら、やはり不快だと思うだろ?」
「兼続が、皆の笑い者にねえ」
 慶次は首を傾げた。
「あまりにも有りえねえ話しで、想像がつかないんだが、う〜ん、どうだろうなあ。皆に嘲笑されている、っていうのは確かに不愉快だし許せねえことだが、皆が純粋に愉しんで笑っているなら、別に構わねえと思うけどねえ。ほら、兼続ってあの通りちょっと堅物なところがあるだろ?もうちっと、洒落心があったほうが取っつき安くなって、家臣からもっと慕われるんじゃねえかと思うんだがなあ。まあ、今だって十分慕われちゃいるがな」
 それを聞いた左近は、慶次が兼続に友情以上の感情を持っていないことを確信した。もし慶次が兼続に恋心を抱いているとしたら、独占欲から、兼続が誰かに注目をされているだけで、不快に感じるはずだ。しかし慶次は、そう感じていないように見えた。
(こりゃあ、兼続の恋は前途多難だな)
 そう思った左近は、少しだけ兼続に同情した。
「俺もそこは慶次殿に同意するぜ。兼続は確かに堅物過ぎるところがある。・・・・ところで、どうする?この馬駆禁止通りを松風に駆けさせるって話だが、本当にやるつもりなのか?」
「ああ、やるとも。見つかったら、兼続に叱られることは間違いねえが、一度やりてえと思うと抑えられなくなっちまうのさ。もし左近殿がどうしても、兼続に叱られるのは怖い、というなら止めてもいいがな」
 慶次はそう言って、ニヤリと笑った。
「はっ、ご冗談を!俺が怖いなどと思うはずないだろ?先ほど、兼続を本気で怒らせるとすげえ恐ろしいと言って、身体を震わせていたのはどこのどなたでしたっけねえ」
「左近殿もずいぶんと言うねえ!」
 慶次は声を立てて笑った。
「左近殿の同意も得たことだし、松風を駆けさせるから、左近殿は俺の腰にしっかり掴まっていてくれよ」
「宣告承知」
 左近は頷いた。
「じゃあ、松風。いっちょ景気良く行くとするか!」
 慶次がそう叫んで、松風の首をポンと叩き合図を送ると、松風は疾風の如き勢いで走り始めた。