「清四郎、俺と一緒に湯を浴びに行くかい?」
旅籠について、荷物を部屋に下ろし終えると、慶次は清四郎を湯浴みに誘った。
この誘いに、慶次にぞっこんの清四郎が乗らないわけがない。
だが孫市はそれを阻止した。
清四郎が頷いたのと、孫市が「駄目だ!」と叫んだのはほぼ同時であった。
この時孫市は、無性に腹が立っていた。一日中、慶次を独占したあげく、湯浴みにまで一緒に行こうとしている清四郎に腹を立てていたのである。
孫市は旅の間中一度も、慶次と一緒に湯浴みに行ったことはなかった。
旅籠は結構物騒なところである。何度か利用して、客と旅籠の主人との間に信頼関係が築かれているような場合でなければ、安心して貴重品を預けることもできない。下手に預けて、だまし取られるということなど日常茶飯事なのだ。だから部屋に貴重品がある時は、常にどちらかが部屋に残って見張っていなければならない。蒸気や湿気に弱い鉄砲や槍、刀などを持って湯浴みなど行けないから、必然的に慶次と孫市は代わる代わる湯浴みに行くことになる。自分でさえ慶次と湯浴みなど行ったことがないのに!と思うと、孫市は怒りが沸々と込みあげてくるのだ。
だが、清四郎に慶次を独占されたり、慶次と清四郎が湯浴みに行こうとしていることに、なぜ自分がこれほどまでに腹を立てているのかは、孫市自身にも分からなかった。もし慶次以外の友人が、誰かに独占されたとしても、自分はそれほど腹を立てないだろう、と孫市は思う。だが慶次が誰かに独占されるかと思うと、無性に腹が立ち、苛々し、胸がムカムカするようなイヤ〜な気持ちになるのだ。
「駄目だ!」
腹を立てていた孫市は、再び大声でそう叫んだ。
孫市があまりに大声で、しかも二度も云うものだから、さすがの慶次もこれには、ぎょっとする。
「そんなにムキになるなんて、孫市、お前らしくないねえ。そんなに大声で云わなくても、お前の云っていることは清四郎にちゃんと伝わるさ」
慶次は祭りのあった日の夜あたりから、孫市の神経が過敏気味になっていることに気がついていた。だがその原因まで、慶次には分らなかった。
孫市でさえよく分からないのだ。慶次に分かるはずもない。
「お前は、長旅でちょっと疲れているんだ。この不自由な生活も、もうちょっとの辛抱だ。あと数日で終わるから、な。」
慶次は、孫市が神経過敏なのは、旅の疲れと生理的欲求が溜まっている所為だと考えていた。そう云えば、もう十日くらい、孫市も自分も女を抱いていないのだ。これでは孫市が苛つくのも無理はない、と慶次は思った。だが慶次の云ったこの言葉が、かえって孫市の神経を逆なでしてしまった。
「それは、俺といると不自由だって云いたいのか?早くこの不自由な生活が終わって欲しいって思っているのか?俺と旅をしていたんじゃ、好きなときに女を抱くってわけにはいかないからな!」
「孫市!口を慎め!」
慶次は、鋭く叱声した。
もしここにいるのが孫市だけだったら、慶次もここまで激しく叱声しなかっただろう。
しかし今は清四郎がいるのだ。
「・・・・・俺は、そういう意味で云ったんじゃねえ。お前といることが、不自由だって云っているんじゃねえぜ。旅ってのは、そもそも不自由なものだろう?俺は、お前との旅が早く終わって欲しいなどと考えたことは、一度もねえよ。お前に誤解を与えるような云い方をしちまって、すまなかった」
慶次に謝罪され、孫市は「いや、お前が謝る必要はない」と云って頭を振った。
「この件は完全に俺が悪かったんだ。苛ついていたものだから、心にも無いことをいって、お前に嫌な思いをさせてしまった。すまなかったな。お前のいう通り、俺はちょっと疲れているのかもしれないな」
慶次に云ったことは、完全な八つ当たりでしかない。
慶次がそんなことを思うような男でないのは、孫市だって良く分かっていたことだ。
孫市は自分が慶次にあんな暴言を吐いてしまったことを、深く後悔していた。
「ああ、俺はほんとまずいことを云っちまったよな」
孫市はため息をついた。
あの後、慶次に気分転換を勧められて旅籠から出てきたのだが、湯浴みをし終わった後、傾城屋がある界隈を歩いて見ても、気分がウキウキするどころか、出てくるのはため息ばかりである。
孫市は酷い自己嫌悪に陥っていた。
慶次にいった言葉。あれは本当にまずかった。
「気にするな。俺も悪かったんだから。なっ」
慶次はそう云って笑ってくれたが、間違いなく俺への印象は悪くなっただろう,、と孫市は思う。
(それにしても、なぜ俺は慶次のこととなると、こんなにも感情的になってしまうのだろう?)
考えてみれば、清四郎が慶次と湯浴みに行くことなど、どうってことない些細なことだ。いくら清四郎が慶次に惚れているといったって、十二の子供が慶次をどうこう出来るわけでない。
それに、だ。
そもそも、慶次は俺の友人だ。そいつが誰から惚れられていようが、誰と恋仲になろうが、俺がいちいちそれに干渉したり、目くじらを立てる筋合いはない。それなのに俺は、まるで自分の女が他の男から惚れられたり、他の男に取られそうになっているかのような腹立ちや、苛立ち、焦りを感じている。
そこまで考えが巡り、孫市はハッとした。
(まさか俺は、そういう意味で慶次と清四郎に嫉妬しているのか?!)
自分の思いついた答えに、孫市はガーンと打ちのめされた。
(う、う、嘘だろ?!俺が慶次と清四郎に嫉妬している?)
いや、断じてそんなことは無いはずだ!第一、俺は男と恋愛する趣味はないぜ!抱くなら、柔らかくて良い匂いのする、女の方が断然良い。男なんて抱いても味気ないだけだ。ま、仮に、どうしても男を抱かなければならないなら、信長んとこにいる、あの蘭丸くらいの美少年じゃないと、勃つ物も勃たないぜ。蘭丸とまるで正反対の漢の中の漢みてえな慶次の裸なんか見たって、欲情できるわけが・・・いや、慶次なら悪くないかもしれないぞ。あいつ色が白いから、湯浴みの後に肌が桃色に染まっているときなんか、案外色っぽいもんな・・・。
(じゃねえよっーーー!!!俺ってば、何思っちゃってるんだ?!俺は、馬鹿か?)
道のど真ん中で、こんなふうに自己問答しては、ウンウン唸っていた孫市であったが、一瞬でも、慶次なら欲情できるかも・・・・と思ってしまった自分に、激しいショックを受けていた。
(あまりに溜まりすぎて、ついに脳ミソまでイカれちゃったのかもしれないな。きっと、そうだ。女を抱けば、脳ミソが正常に戻って、慶次に欲情なんて気は起こさなくなるに違いない)
孫市はそう結論づけると、傾城屋がある方角へと足を向けた。