虎ノ尾ヲ践ム3

孫市は、脱衣所で湯女から渡された浴衣を無造作に羽織ると、とにかく人目の付かないところを探した。そこで見つけたのが、湯女が風呂屋の客を接待するために用意された座敷であった。一番奥の座敷に入るなり、孫市は仰向けに寝転がる。そして浴衣をもどかしく捲り上げ、褌を緩めると、すでに勢り勃ち、褌に締め付けられていた所為で痛みさえ感じていた一物を脇から取り出した。
 褌の束縛から自由になったそれは、ぶるりと震え腹を擦るほどに勃ちあがった。
「う、うっ・・・・!」
 渇望した解放感に、孫市は思わずうめき声を洩らした。
 完全に勃ちあがった一物を軽く握るだけで、強烈な刺激が全身を走り抜ける。
 孫市は愛しい男の裸体を思い浮かべ、自身の手で強く擦りあげた。己の性器に絡みつく指が慶次のものだと想像すると、たまらなく燃えた。
「慶次・・・・慶次・・・・!!」
 慶次に対して強い肉体的欲望を抱くようになってから、孫市は、慶次の顔や淡金色の髪、白く美しい肢体を思い描いては、何度も自慰に耽ったことがある。そのことに罪悪感を感じないわけではないが、恋心を打ち明けることのできない苦しみ、愛しい人への激しい欲情を少しでも紛らわすためには、他に方法がなかった。
 だが今日初めて、慶次のほぼ全裸を手に触れられるほど間近で目にしてしまった。それは孫市が想像していたよりも、ずっと美しく魅力的であった。酷く劣情を煽られた。
 飢えるほどに慶次の肉体を欲していた孫市は、慶次の裸体を思い出しては自身の妄想をさらにたくましく広げる。
 陰物を指で愛撫する慶次、形の良い唇で性器をしゃぶる慶次、秘所に肉棒を挿入された快感で身悶える慶次という、ありえない光景を次々に思い描く。
 己の性器を包んでいるのは孫市自身の手であるが、いつしか孫市の頭の中では、慶次の菊門の奥にある内壁にすり替わっていた。
「あっ・・・・もう、いっちまう、・・・・・慶次、慶次、慶次、・・・・慶次!」
 孫市は最後の瞬間、慶次の名を何度も呼びながら達した。
 吐き出された劣情と共に熱が次第に退いてくると、孫市は冷静さを取り戻し、己の馬鹿さ加減に頭を抱えたくなった。
 何も云わず、風呂場を飛び出した自分を、慶次は訝しく思っているだろう。慶次に対して欲情している姿を、隠しきれた自信もない。下腹に疼く熱を抑えるのに必死で、慶次の前で自分がどう振る舞っていたのかなど全く意識できなかった。
 慶次に会うのがたまらなく気まずい。
 ましてや、慶次を肴にして自慰に耽ってしまった後は、格別に気まずい。だからといって、風呂場で孫市が戻ってくるのを待っているであろう慶次をそのままにして、帰るわけにもいかない。それに、慶次とこのまま会わずにすごすごと雑賀へ帰るのは、たまらなく嫌であった。
 しばし思い悩んだ後、とりあえず慶次のところへ戻らねばなるまいと思い、畳に寝そべっていた孫市がようやく起きあがったとき、ぎいっと床板がきしむ音がした。
 音がした方向を見ると、座敷の縁側からこちらを見ている慶次と目があった。思いもよらぬことに、孫市は飛び上がった。
「けけけけけ、け慶次!!」
 驚愕のあまり、孫市の顔は真っ青になった。
 ばつが悪そうに頬を掻きながら、慶次が孫市に近づいて来た。
 その孫市の顔を見つめる慶次の表情は、眉を下がり気味にした困惑顔である。
「い、いやね、お前さん、やけに苦しそうな表情をしてたしねえ。具合でも悪くなったんじゃねえかと心配になったもんだから、お前さんの後を追ったんだが、そこでな・・・見るつもりじゃあ、なかったんだが・・・・見ちまったんだよ、お前さんがそこをいじっているところをさ」
 顔を赤くした慶次が、実に言い難そうに云う。 
 孫市はぎょっとした。しばし固まり、次いで恐怖で全身が総毛立つ。
(慶次に見られた!) 
 孫市はほとんど卒倒しそうになった。


 慶次が、孫市の自慰を見るつもりでなかったことは真実であった。風呂室から逃げるように飛び出した孫市が気になり、後を追っただけだ。
「いったい、どこへ行っちまったのかねえ・・・・・」
 脱衣所で身体を拭い、湯女に渡された浴衣を羽織った慶次は、見失った孫市を探した。脱衣所を通り抜け、その奥へと続く長い渡り廊下へと向かう。この廊下を渡ると風呂屋の客が湯女と過ごすための離れの家屋が見えてくる。まだ、時間が早いのか客の姿はなかった。慶次がその家屋の座敷を順々に探索していると、
(いた!)
 慶次がいる場所から中庭越しに見える一室で、寝そべって苦しげな表情をしている孫市の姿を見つけた。 ますます心配になった慶次は、孫市がいる座敷に近づき、声を掛けようとした。
 その瞬間、
「────ッ!!」 
 思いもよらぬものを見て、慶次は言葉を失った。ちょうど死角になっていて、座敷に近づくまで孫市の下半身が見えなかったのだ。さらには、孫市は襖を明け放ったまま寝そべっていたものだから、そんなことをしているとは全く予想していなかった。
 しばしの驚きの後、今度はむっくりと好奇心がもたげてきた。
 慶次はニタッと笑う。ちょっとだけ覗き見してやろうと思った。
 だが覗き見を始めてまもなく、孫市が自分の名を呼んだことで、慶次は固まったようにそこから立ち去ることができなくなってしまった。そして、結局は一部始終を見てしまったのだ。
 孫市が達する寸前に、自分の名を何度も呼んだのも聞いてしまった。
 慶次はひどく驚き、我を失った。
(なぜ、俺の名を・・・?)
 だが、そう思ったのは一瞬で、次いで──そういうことか、とすべてを悟った。
 慶次はとりたてて色恋沙汰に敏感な方ではない。それでも、分かってしまったのだ。
 ここ半年ほど前から、孫市の慶次への態度はそれほどまでにあからさまであった。しかし、気づくまでに時間がかかったのは、慶次の鈍さの所為ばかりではない。孫市は自ら「古今無類の女好き」を自称している男である。慶次も孫市の女性への並々ならぬ執着振りは目にしていた。衆道などに走る男の気持ちなど全く理解できない、とも云っていた。
 その孫市が自分に恋愛感情を抱くなどと誰が想像できるだろう。
 だが、慶次は孫市の心を知ってしまった。
 知ってしまった以上、孫市に何らかの答えを出さなくてはならないだろう。
 自分が孫市と相思相愛の仲を望んでいるなら話は単純である。だが、慶次は孫市を友人としか見ることができない。その気持ちを孫市に打ち明けてしまったら、孫市との友情もきっとそこで終わってしまうだろう、と慶次は思う。恋人にはなれないが、友人であり続けようなどというのは虫が良すぎる話だ。色恋沙汰はそう単純に割り切れる問題ではない。 
(いったい、どうしたもんかねえ)
 慶次は、盛大にため息をついた。
 元来、楽天家の慶次はあまり思い悩むということがない。まあ、なんとかなるさ、という気持ちでひょうひょうと過ごせば、大抵のことはどうにかなるものだと思っている。その楽天家の慶次も、この時ばかりは苦悩した。
 孫市の自慰を目撃した直後、すぐに風呂場に引き返さなかったことを、慶次は酷く後悔した。好奇心を満たすために覗き見など始めなければ、少なくともこのような状況は避けられたはずだ。
 孫市の行為が終わった後もすぐに引き返せなかったのは、自分が自覚していた以上に度を失っていたからであろう。
 我に返り、孫市に気づかれる前に引き返さなければ、と思った時にはもう遅かった。自分がそう思った時と、孫市が起きあがった時はほぼ同時であった。
 本当に、間が悪かった。
(好奇心は猫を殺すとは、良く云ったもんだ)
 自分の状況を顧みて、慶次は痛感する。
「なあ、孫市」
 目の前でぶるぶると震えている孫市に、慶次は恐る恐る声を掛けた。
「本当に、すまなかったねえ」
 慶次はばつの悪そうな顔で謝る。
「だがな、お前さん、そんなに気にするもんじゃねえよ。蛍掻きくらい、男なら誰でもやるさ。女に見られるならともかく、男に見られるくらい、どうってことねえさ」
 慶次は孫市を慰めるために、自分の本心をあえて隠してそう云った。孫市に云ったことは、偽りの気持ちではない。自慰をしているところなど進んで人に見せたいものではないが、同性に見られるくらいは、大したことではないと思っている。
 戦の最中に起こる刺激的な出来事。
 相対する敵との命のやりとり、武器が激突する音、馬の嘶き、戦人たちの鬨の声、飛び散る血肉、諸々のものに興奮し、戦さの最中勃起してしまうことがしばしばある。
 そんなとき、女が不足している戦さ場では、自分の手で慰めるより他に手だてがない。
 戦が終わった後、自慰をしている男達の姿を何度か目にしたことがあるし、慶次自身も見られたことがある。戦さ場では珍しくもないことだから恥ずかしいと思ったことはない。
 だが、惚れた相手に見られるのは恥ずかしい。まして、惚れていることを打ち明けられない相手に見られるのは、最悪だ。さすがの慶次も、それだけは勘弁願いたいと思う。
 孫市の今の状況は、その最悪の状況である。時の巡り合わせとはいえ、こんな状況に追い込まれた孫市を気の毒だと思う。
 慶次はそんな孫市に「気の毒だねえ」などと軽々しいことは決して云えない。 そんなことを云ったら、余計に恥ずかしい思いをさせるだけだ。それに慶次には、孫市の気持ちを知ってしまったことを匂わせるようなことを、出来る限り云いたくないという気持ちもあった。慶次は未だに、孫市にどう答えれば良いのか分からなかった。
 孫市は大切な友人だ。できるなら、失いたくない。
 だが、その気持ちを孫市に云ったとしても、自分たちの関係はいずれ壊れてしまうだろう。
 慶次はそう思うと、孫市に「友人としてつき合いたい」という自身の気持ちを伝えることに、躊躇いを感じてしまう。孫市が自分を思う気持ちとは違う意味ではあるが、慶次も孫市という男が好きである。戦人としての心意気や、鉄砲の腕に惚れている。味方同士として、一緒に戦場を駆け回るという夢を思い描いたこともある。その孫市を失うのは、実に辛いことだ。だから慶次は、汚いことをしていると自覚しながらも、自分が孫市の気持ちを知ってしまったという事実を孫市に隠したかった。