虎ノ尾ヲ践ム4

 孫市は、己を慰めようとしている慶次に、どこか不自然さを感じていた。慶次はどのようなときでも、話をする相手の目をじっと見つめながら話す。
 以前、慶次にそのことについて訊ねたことがある。その時、慶次は、
「目は口ほどに物をいう、って云うだろ?それになぁ、人に物を云うときも聴くときも目を逸らすのは、どうしても失礼なことだと思っちまうもんでね」
 と説明してくれた。
 その慶次が時折目を逸らしている。おまけに、そわそわと落ち着きがない。終いには、爪まで噛みだした。 
 それを見て、孫市は慶次が何かを隠していることに気がついた。
 馬鹿正直な慶次は、人に平気で隠し事をすることができない。子供がするような類の些細な隠し事をするときさえも、動揺して爪を噛みだすほどだ。
(おそらく慶次は、俺が慶次に恋愛感情を抱いていることにすでに気づいてしまったのだ。そしてそのことを、俺に隠そうとしているのだ)
 そう察した孫市は、酷く傷ついた。
 慶次のためにも、又これ以上自分の心が傷つかないためにも、このまま己の気持ちを伝えることなく、うやむやにしてしまうのが一番なのだろう。慶次に告白するのはとても恐い。孫市は告白するべきか、するべきでないか葛藤した。そして葛藤の末に、慶次に告白することに決めた。
 慶次に振られるであろうことは、ほぼ確実である。だが、それでも万に一つの可能性を賭けて、慶次の思いを確かめずにはいられなかった。
「・・・・慶次、見ていたからには、もう知っているんだろう?俺のお前への気持ちを・・・・。俺はお前が好きだ。愛しているんだ。なあ、お前の気持ちを教えて欲しい。お前は俺をどう思っているんだ?」
 孫市は慶次を見上げ、渾身の勇気を振り絞って云った。

 やはり、孫市は気づいていたか!慶次の心臓がドクッと跳ね上がった。
 次いで、孫市の気持ちに気づきながらも、それを隠そうとした己の心の醜さを暴かれた後ろめたさが、慶次の胸にじわりと広がる。
 慶次をまっすぐ見つめる孫市の目は、慶次の答えを懇願するように揺れていた。孫市に何か云わねばと思う。しかし、口に栓でもされてしまったかのように、言葉が出ない。ただ汗ばかりが吹き出してくる。
 嫌な沈黙が続く──。
 が、その沈黙を破ったのは孫市であった。
「・・・・・お前は俺をどう思っているかなんて、愚問だったな」
 そう云って、孫市は自嘲的な笑いを浮かべた。
 孫市は、慶次の沈黙を拒絶だと考えた。慶次に振られることは、孫市も最初から予想していたことだ。あんな形で慶次に知られてしまったのだ。己の醜態を目の前で視た慶次が、自分に好意など抱くはずはない。だがそれでも、慶次からこれほど強く拒絶されるとは思っていなかった。
 普段から底抜けに明朗な男が、何も云わず沈黙している。それは孫市にとって、もはや修復不可能な絶対的破滅に思えた。慶次に振られただけでなく、慶次との友情をも失ってしまったのだと思った。
 孫市はそれがとてつもなく悲しかった。
「この恋が成就するとは俺も思っちゃいなかった。九分九厘は振られるだろう、と覚悟していた。でも正直云うと、ほんの少しだけ期待もしていた。もしかしたら・・・・ってな。馬鹿だろ?まったく、笑えるよな。だが、お前が俺をどう思っていようと俺はお前が好きだ。お前にとっちゃ迷惑なことかもしれないが、俺はお前に告白できて良かったと思っている。それだけで満足だ。俺は、お前の前から消えることにするよ。・・・・・今までありがとな、慶次。お前と過ごした日々は、とても楽しかった」
 孫市は、今にも泣き崩れてしまいそうな自分をなんとか奮い立たせ、そう云った。そして勢い良く立ちあがり、その場から走り去った。
「待ってくれ!孫市!お願いだ!」
 孫市を失う恐怖に駆られ、慶次は叫んだ。
 それでも逃げ続ける孫市を夢中で追い、やがて追いついくと、孫市を逃がすまいとして後ろから羽交い締めにした。そのまま無理矢理引きずるようにして、座敷へと連れ戻す。
 孫市はしばらく慶次の腕から逃げようともがいていた。
 だが、逃れることは不可能だと悟ったのか
「この馬鹿力が!」
 と嗄れ声で憎まれ口を叩き、やがて大人しくなった。
「・・・・・孫市、俺は馬鹿力なんじゃなくて、馬鹿野郎なのさ。ずいぶんと卑怯なことをしちまったねえ・・・・本当に情けねえなぁ・・・・」
 慶次は孫市を羽交い締めにしたまま、消え入るような声で云った。 
 慶次は猛烈に反省していた。孫市は葛藤の末に訊ねたに違いない。その孫市に何も応えなかった卑怯な自分に、猛烈な嫌悪を感じていた。
「本当に、卑怯な男だよねえ」
 また、ぽつりと呟くように云う。
 孫市は、そんな慶次が心配になり、顔を後ろに向け慶次の表情を見ようとする。その顔は心許ない表情で、慶次の心を切なくさせた。
 慶次は孫市を羽交い締めにしていた腕を解くと、孫市の目を見ながら話ができるように、向き直らせた。
 今しなくてはならないのは、誠意を持って正直な気持ちを伝えることだ。
 慶次はそう思った。

「俺はな、恐ろしくてお前さんに何も云えなかったのさ」
 慶次は深い溜息とともに云った。
 その意味を理解できなかった孫市は、怪訝な表情を向ける。
「俺はお前を大切な友人だと思っている。だから、云うのが恐かったのさ。俺を友人とは違う意味で好いてくれているお前に、この気持ちを正直に云ってしまったら、もう友人でいられなくなるかもしれねえ、って思ってなあ」
 慶次は孫市の目を見つめて、真剣な表情で云った。
 その慶次の言葉を聞いた孫市の胸は、たちまち歓喜に満ちあふれた。
 心に吹き荒れていた嵐が突然消え去り、明るい太陽の光が射して来たようであった。孫市にとっては、慶次に嫌われていないということが何よりの救いであったのだ。孫市は不覚にも泣きそうになった。
 だが慶次は、その孫市の顔を見て誤解した。
「友人だと思っている」と云った己の言葉が、孫市を傷つけてしまったのだと思った。
 友人と云えば聞こえは良いが、要は孫市を振ってしまったのも同然である。
(こうなってしまったからには、孫市とつき合って行くのはやはり難しいかもしれないねえ)
 またこうして友人を失うのかと思うと、慶次は暗い気持ちになった。
 慶次はこれと同じような体験を、過去にも一度していた。
 まだ十代半ばたっだ頃、「好きだと」告白してきた幼なじみに、「友人のままじゃだめなのかい?」と云ったことがあった。それからしばらくの後、自分はずいぶんと野暮なことを云ってしまったということに気づいた。
 だがそれに気づく前に、その幼なじみとはぎくしゃくとした関係になり、やがて疎遠になってしまった。
 城主の跡継ぎであった慶次には、友人がそれほどいなかった。皆、慶次に遠慮してうち解けた話をしない。
 だがその幼なじみは、慶次を城主の跡継ぎとして扱わなかった。心から云いたいことを云い合える友人であった。
 その大切な幼なじみを失ったことは、慶次の心に深い傷跡を残した。
 孫市に自分の気持ちを伝えることを、慶次がこれほどまでに躊躇った理由は、ここにあった。
 そして、目の前で今にも泣きそうな顔をしている孫市を見て、慶次に再び躊躇いが生じる。できるなら、孫市を傷つけるようなことはこれ以上云いたくない。だがやはり、云わねばなるまい。
「孫市・・・・」
 と、慶次は溜息混じりに言葉を次いだ。
「俺もお前が好きだ。だが、それはお前さんが俺を好いてくれているのとは違う意味でだ。すまねえが、俺はお前を友人として以外に見られねえ。こんなことを云うのは、野暮なことだと重々承知しちゃあいるが、今まで通りつき合うっていうわけにはいかねえかい?もし、そうしてくれるなら非常に嬉しいんだがねえ」
 慶次がそう云い終えるや否や、孫市の瞳からはらはらと涙が零れ出した。
 それを見た慶次は、おろおろと取り乱した。
 慶次は誰かに泣かれることに、めっぽう弱い。特に孫市のような、死んでも他人に涙を見せまいとする意地っ張りで気が強い人間に泣かれることに、たまらなく弱い。
「な、なあ、孫市」
 そう、話しかける慶次の声は酷く弱気である。
 慶次は、孫市を何とか慰めたいと思うのではあるが、どうしたらいいのか分からない。孫市を泣かせた元凶は他でもない自分であると思うと、慶次は罪悪感に嘖まれる。さらに悪いことに、慶次を見上げながら涙を零している孫市の顔は、慶次の目から見ても庇護欲をそそられるような可愛さがあった。
 豊かな長い睫は、涙で濡れて艶めいて見えた。
(色気がある)
 つい慶次はそんなことを思ってしまった。孫市の顔を見ていると、おかしな気持ちになってくる気がした。
「俺は、お前さんを友人として好きだとは云ったが、それは友人から発展する可能性が全くねえという意味じゃねえよ。・・・・・なあ、俺に猶予をくれねえか。なんせ、孫市が俺を好いてくれていることは、今日知ったばかりだしなぁ。思いもよらぬことで、正直俺は気が動転しちまっているのさ」
 慶次は孫市の涙に絆され、こんなことを云ってしまった。
 これは先ほど慶次が云った「お前を友人として以外に見られねえ」という言葉と大いに矛盾しているのであるが、不幸なことに慶次はその矛盾に全く気がついていない。というのは、云っている慶次本人が本気で、友人から恋人という関係に発展する可能性もある、と思い始めているからである。
 まるで術にでも掛けられたかのように、慶次は孫市の涙に完全に絡め取られてしまっていた。