虎ノ尾ヲ践ム5

 次第に自分に有利になってきたこの戦況を、孫市が見逃すはずがなかった。
 男との恋愛の駆け引きは、孫市にとってこれが初めてである。だが女性との駆け引きならば、海千山千の経験を積み、その道では慶次より上手である、と孫市は自負している。慶次が自分の涙によって心を動かされ、前後不覚になっていることはとっくに察知していた。
 慶次ならずとも、男なら大抵女の涙に弱いものである。
 だが、慶次が絆されたのは自分の涙。なんだか自分が慶次から女のような扱いをされているようで、複雑な思いがするのではあるが、自分が歓喜のあまり流した涙を慶次が勝手に誤解したことは、孫市にとって非常に都合が良かった。これをこのまま利用しない手はない。
 孫市はこの戦況をさらに有利なものにするべく、虎視眈々と機会を窺う。
「慶次、それは俺がお前を好きだというのと同じ意味で、お前も俺を好きになってくれる可能性があるってことか?そう、考えていいのか?なあ、慶次」
 孫市は故意に甘えた声でそう云って、涙で濡れた瞳でじっと慶次を見つめる。すると、明らかに慶次の顔が赤くなった。
「あ・・・ああ、そうだ。だけど、今すぐそういう気持ちになれるってわけじゃねえよ。愛だの恋だのってぇのは、今すぐ好きになれといわれても、ああそうですか、ってな具合にできるような単純なもんじゃねえからなぁ。だからな、もうしばらく俺に時間をくれねえか? なあ」
 相変わらず赤い顔をしたまま、慶次は孫市を諭すような口調で云う。
「分かったよ、慶次。お前がそう云ってくれるなら、俺はいつまでも待っているよ」
 孫市は、慶次の目になるべく自分がいじらしく映るように、袖で涙をごしっと拭って見せる。孫市は、演技とはいえそんなことをしている自分に我ながら気色悪さを感じているのだが、孫市のそんなわざとらしい演技も慶次には効果覿面であった。
 慶次の孫市を見る目が、可愛いものでも見ているかのような柔和なものにふっと変わる。
 孫市は恋愛の駆け引きの場数を踏んでいるだけに、そういう微妙な変化を鋭く察知する能力に長けていた。駆け引きをしている相手がこういう目をしているときは、大抵こちらの要求を叶えてくれるものである。
 孫市はここぞという隙をついて、人なつっこく、甘えるような微笑みをかけながら、慶次に自分の要求を突きつける。
「なあ、その代わりといっちゃなんだが、お前も俺の願いを一つ叶えてくれないか?」
 そう云う孫市の言葉に、慶次はあっさりと「ああ、いいよ」と答える。
「慶次、絶対叶えてくれるんだな」
 孫市は、再度重ねて懇願するように問う。
「ああ、絶対だ。俺ができることなら絶対する。二言はねえよ」
 慶次は疑われて心外だ、という顔でそう云った。
 孫市は心の中で、してやったり!とほくそ笑む。
「前田慶次の盟約、確かに頂き申した」
 わざと重々しい侍言葉でそう云った瞬間、孫市の微笑んでいた目が、突如剣呑なものへとがらりと変わる。
(慶次を絶対手に入れてみせる!)
 この時、孫市は心の中でそう固く決意していた。
 慶次には自分を好きになってくれるのをいつまでも待つとは云ったが、それは孫市の本音ではない。そんな悠長なことをしていたら、慶次に、
「やはり友人以上にはなれねえ」
 と云われて、逃げられてしまうかも知れないのだ。
 慶次の前で自慰をしてしまう、という醜態をさらしたにもかかわらず、慶次は自分を嫌ってはいない。そればかりか、自分を好きだとも、大切な友人だとも、失うのが恐いとも云ってくれた。
 慶次はお愛想で、そんなことを云える男ではない。友人という範疇であるが、慶次が自分を好いているのは本当であろう。その事実が、孫市の勇気を奮い立たせていた。
(慶次を手に入れるなら、今こそまさに千載一隅の好機。押しの一手で攻めまくるしかないぜ!!)
 一時は本気で、慶次の前から姿を消そうとまで思っていた気持ちは、今や跡形もなく消え去っていた。
慶次に片恋をして苦しんでいた、弱気の孫市の姿はもうここにはない。孫市は完全に開き直った。

 一方の慶次は、孫市のその豹変振りに、何か嫌な予感を覚えていた。
 孫市の顔つきは、慶次が孫市に会って間もない頃の、自信に満ちあふれた孫市本来の輝きを取り戻していた。
 初めて孫市に出会ったとき、慶次はまず最初にその表情に強く惹かれた。
 久方ぶりに見るその表情を懐かしく思いながらも、同時に酷く危険な匂いも感じていた。
「なあ、慶次」
 孫市は慶次に密着するかのように、ついっと詰め寄った。
 慶次は反射的に後ずさる。
 孫市はその慶次の肩をがしっと掴み、慶次の目を見据えて云う。
「お前、俺ができることなら絶対するって云ったよな」
 そう云う孫市の声は、酷く威圧的である。
「ああ、云ったよ」
 慶次の声に怯えが走る。
「二言はねえよ、とも云ったよな」
「ああ」
「じゃあ、今すぐ、今日中に、俺と同衾してくれ」
「・・・・・・へ?」 
「慶次とさ、媾いたいと云っているんだ。それがさ、今の俺の一番の願いなんだよね」
 孫市はそう云って、にたりと意地の悪い笑みを浮かべた。
(そうきたか!)
 あちゃあと天を仰いだ慶次は、自分が完全に墓穴を掘ったことを悟る。
(でもなあ、それはないんじゃないのか、孫市。俺はお前にもうしばらく待ってくれと頼んだはずだぞ!)
 慶次は何か釈然としないものを感じた。そこで孫市に負けじと云い返した。
「だけどなあ、孫市。俺はお前にもうしばらく時間をくれ、と頼んだはずだ。あれは、男同士の約束じゃあなかったのかい?」
「ああ、確かに約束したな」
さらっとそう返答した孫市に、慶次はあからさまに安堵した表情を向ける。
「じゃあ、お前さんと同衾するっていう話は無しでいいんだな?」
「いや、そいつはだめだ。その約束は守ってもらう」
「孫市、お前の話は辻褄が合ってねえぜ」
 怒りを含んだ声色でそう云う慶次に、孫市は「いや、辻褄は合っているぜ」と答える。
「むしろ、辻褄が合ってないと思うのは、慶次、お前の勝手な思いこみが原因だ」
 そう云う孫市の言葉に、慶次は納得できないといった顔をした。
「俺は確かに、お前にいつまでも待っていると云った。だがそれは、お前が俺を友人以上の存在として好きになってくれるのをいつまでも待つ、という意味で云ったんだ。それまでお前と同衾するつもりはないと、俺は云った覚えも約束した覚えもないぜ」
「そりゃあ、孫市。詭弁ってもんじゃあねえのかい?!」
 慶次はほとんど叫ぶように云う。
「言葉っていうのはな、もともと曖昧なものなんだよ。痛い目に遭いたくなかったら、これからは事柄の意味を正確に定義してから約束したほうがいいぞ。今回は残念だったな、慶次」
 孫市はひょうひょうとそんなことを云って、にたりと笑う。
 慶次はそんな孫市に一矢を報いたいと思うのだが、論駁できる言葉が浮かんでこない。さっきから孫市を見つめたまま、ぱくぱくと金魚のように口を開いたり閉じたりしている。
 そんな慶次に孫市は
「でもこれじゃあ、お前があまりに可哀想だからなぁ」
 と言葉を継いだ。
「精一杯譲歩して、もしお前が今まで同衾したことがある相手に、一人も行きずりの相手がいないっていうなら、お前と俺が同衾するって話は、白紙に戻してやろう。お前が常に惚れた相手としか寝ないとしたら、俺の云っていることが詭弁に聞こえて当然だからな。でもそうじゃないなら、約束は絶対守ってもらう。惚れた相手以外とも同衾したことがあるっていうなら、誰かに惚れていることと、肉体関係を持つことをお前もまた区別して考えているってことを、身を持って証明していることになるからな。・・・で、慶次。お前は惚れている相手以外と同衾したことがあるのか?ないのか?」
 慶次にずいぶんと意地悪していることを承知で、孫市は問う。慶次が傾城買いをしたことがあるのを知っていて、孫市はわざわざこんなことを云っているのだ。
 まさに八方塞がりの状態になった慶次。
「孫市、俺はどうやらお前さんとの約束を守るより以外に手がねえようだ」
 そう自棄っぱちに云うと、畳の上にどかっと腰を下ろし、胡座を掻いて座った。
 孫市も慶次の正面に腰を下ろし、膝か触れあうほど側まで寄る。
 慶次はすでに覚悟を決めているのか、孫市から逃げようとはしなかった。だが、孫市が慶次の目をひたっと見据えると、慶次の目の色が動揺したものに変わる。
「慶次、まだ迷っているのか?・・・もし、お前がどうしても嫌っていうなら、俺は」
「い、いや、そういうわけじゃねえよ。約束は約束だ。俺は約束を違えるつもりはねえよ。ただなぁ」
 慶次は照れくさそうに鼻の頭を掻いた。
「俺は孫市をうまく抱けるか、正直心配でねえ。・・・男を抱くこと自体に抵抗はねえんだが、お前さんのような六尺以上もある大人の男を抱くことになろうとは、考えたことがなかったからねえ。ちーとばかし、心配になっちまってなあ」
 自分が孫市を抱くのだとばかり思いこんで悩んでいる慶次を見て、孫市は思わず笑ってしまう。
(まあそれも無理ないことだよな)
 体格差から考えても、慶次のほうが年上ということから考えても、俺が慶次を抱くよりも、慶次が俺を抱くほうが相応しいのであろう。
(でもな、慶次。それでも、俺はお前を抱きたいんだ)
「そんなこと心配する必要はないぜ、慶次」
 そう云って笑い出した孫市を、慶次はきょとんとした顔で見つめている。 その慶次の顔が驚愕の表情に変わることを予期しながら、孫市はさらに言葉を続けた。
「だってな、俺がお前を抱くんだよ」
 しかし、孫市の予想に反して、慶次はさほど驚いた顔はしなかった。
 その代わり、何ともいえない複雑な表情をした。
 なぜ慶次がそんな表情をしたのか、孫市は間もなく知ることになるのだが、その慶次の顔を一生忘れることはできないだろうと思った。
 慶次は、しばらく俯いたまま沈黙していた。
「抱く?・・・お前が、俺を? 本気か?」
 やがて面を上げると、孫市を見つめて云った。
「ああ、本気も本気だ。だいたい、冗談でこんなことを云えるわけがないだろ?」
 孫市は有無を云わせず慶次にさらににじり寄り、手首を掴んだ。
「なあ、いいだろ?抱かせてくれよ。俺はお前に惚れきっているんだ。お前を抱けるなら、ここで土下座してお願いしてもかまわない。なあ、お願いだよ」
 孫市は本当に土下座しかねない勢いで、慶次に懇願する。
「で、でもな、孫市、お前、俺を本当に抱けるのかい?つまりな、俺みたいな、でかくて色気もねえ男で、欲情できるのかい? 信じられん」
 慶次はよほど頭が混乱しているのか、そんな馬鹿な質問をしてくる。
「慶次、それこそ愚問だぜ。自覚していないようだが、お前は凄く色気がある。とても魅力的だ。その証拠に、お前の側にいるだけで、もう、勃っちまってるんだぜ」
 孫市は慶次の耳元でそう囁くと、掴んでいた慶次の手を引き寄せ自分の股間に押し当てた。
 孫市の股間が指に触れた瞬間、慶次はびくっとした。
 布越しではあったが、そこがすでに固く勃起しているのが分かった。
「なあ、お願いだ、慶次。抱かせてくれ。もう、俺は我慢できそうもないんだ。なあ、お願いだ」
 慶次を見つめながら懇願する孫市の眼は、追いつめられた手負いの獣のような狂気じみた色を放っていた。男としての自尊心をも投げ出したかのように、捨て身で懇願してくる孫市に、嫌と云える術は慶次にはなかった。こうなると、袋のねずみだった。
「・・・ああ、いいよ。そこまで頼まれちゃあ、嫌とは云えねえ。孫市、お前の勝ちだ」
 長い葛藤の末、慶次は深い溜息とともにそう云った。