虎ノ尾ヲ践ム9

 孫市は夜が明けるまで、慶次の肉体に溺れていた。
性交し合えばし合うほど、しっとりと孫市の性器に吸い付いてくる慶次の秘所も、肌理こまやかで、弾力がある肌も、身体全体から立ち上る匂いも、悦びで啼く声も、何もかもが素晴らしかった。
 夜明けになって、ようやく眠りについた孫市は、ぼんやりとした微睡みの中で、誰かの声を聞いた気がした。
 うっすら目を開けて慶次を見てみたが、慶次は静かに寝息を立てている。その慶次の腕が自分の身体に巻き付いている感触に、孫市は思わず微笑んだ。孫市の胸に、愛する慶次と今こうしていることの喜びが沸きあがってくる。
(人の声を聞いた気がしたが、どうやら気のせいだったようだ)
 孫市はそう思いながら、抱いていた慶次の腰をグッと引き寄せ、額に接吻すると、もう一度眠りにつこうとした。
 だが、間もなく聞こえてきた誰かの声で、孫市は睡眠を妨害された。
「おー、松風!おめえ、相変わらずでっけえなあ!何食ってそんなにでかくなったんだ?そりゃあ、おめえ、草に決まってるよな!」
 声の主はそう云って、わはははと大声をあげて笑い出した。
 それを聞いた孫市は、チッと舌打ちをして、顔を不快感で歪ませた。
(てめえの言葉にてめえで受け答えて、大声で笑っている馬鹿は、どこの誰だ?!ったく、慶次と至福の時間を過ごしているって時に、邪魔するんじゃねえよっ!)
 孫市は心の中で悪態をつく。
 慶次の家に訪ねてきているということは、あの大声で笑っている馬鹿、おそらく慶次の知り合いか誰かだろう。そう思うと、次第に気分が悪くなってきた。慶次に惹かれない人間などいるわけがないと考えている孫市にとって、慶次を取り巻く人間は、男であれ女であれすべて恋敵であった。ましてや慶次の家まで訪ねて来るほどの人間となると、非常に油断ならない存在だ。
(絶対、慶次に会わせてなるものか!こうなったら慶次が気づいて起きてしまう前に、追っ払うしかないな)
 そう考えた孫市は、慶次を起こさないようそっと身を起こし、脇に脱ぎ捨てられていた着物を適当に羽織る。そして念のために、と思い銃を肩に担ぎ部屋から出ようとした。
 するとその時、外にいる声の主が、
「おい!雑賀孫市もう起きているか?!そろそろ昼になる時間だぜ!いつまでも寝てるんじゃねえよ!雑賀、おめえ聞いてるか!孫、孫、孫!!」
 と叫んだので、孫市はぎょっとした。
(今、自分がここにいることを知っている人間は、ほとんどいないはずだ。それを知っているということは、おそらく利家の回し者が来ているに違いない。だがそいつが、白昼堂々俺を訪ねてくるとは、一体何の了見だ?)
 孫市はそう心の中で呟き、銃を握る手に力を込める。孫市はいざとなったら、相手を撃ち殺すつもりでいた。


 孫市は警戒をしながら、外に出た。そして銃を構えながら厩へ向かうと、松風の前に男が立っているのが見えた。頭上から降り注ぐ太陽の光の加減で、孫市には男の顔がはっきりとは見えなかったが、その身なりから、相手はある程度の地位にいる武士であることがすぐに分かった。
「俺を呼んだのはお前だな?お前に呼ばれたから、こうして出てきてやったぜ。・・・・で、俺に何の用だ。まあ、どうせお前は、利家か信長の回し者だろうから、わざわざ用件を聞かなくても、大体察しはつくけどな」
 孫市は銃を構えたまま徐々に男に近づき、射撃し易い位置まで来ると、そこでぴたりと止まった。
「おーっ、おめえが雑賀孫市か!戦場や京で何度か遠くからおめえを見たことはあるが、こんな近くで見るのは初めてだなあ!ま、とりあえずおめえのことは、孫と呼ばせてもらうぜ。雑賀孫市じゃ、長すぎて面倒だからな」
 銃を向けられているというのに、相手は笑いながらひょうひょうとした態度でそんなことを云ってきたので、孫市は少々拍子ぬけした。
「お前が俺をどう呼ぼうと勝手だが、その前に一言名乗るってのが、礼儀だろ?」
 孫市は銃を向けたまま云った。
 すると相手は、
「けっ!礼儀だと?・・・ったく、見かけによらず、小言が好きな爺みてえな奴だな」
 と呆れたように云うと、いきなり孫市に背を向け、「これで、分かるだろ?」 と云い笑った。
 孫市は、相手が堂々と背を向けてきたことにも驚いたが、男が着ている陣羽織に慶次と同じ家紋が刺繍されているのを見て、さらに瞠目した。
「・・・・もしかして、お前、利家か?」
 孫市は、まさか利家本人がここに来ようとは、全く予想していなかったため、唖然となった。
「そうだ俺は利家よ!・・・・俺はおめえに云いてえことがある。ちょっと付いてこい。あっ、その銃は置いて来いよ。そんな物騒なもの、必要ねえからな」
利家は、口を開けぽかんとした顔をしている孫市に向かってそう云うと、さっさと歩き出した。
「・・・・おい!ちょっと待てよ!お前、俺をどこに連れて行く気だ?・・・・どうせお前、ここに一人で来たんじゃねえんだろ?そんなことを云って、俺を油断させて殺そうという腹なんだろうが、そうはさせないぜ!」
 我に返った孫市は、歩き始めた利家に向かって、慌てて叫ぶ。
「おめえ、ケツの穴の小っちぇえ野郎だな。俺はおめえを殺すつもりはねえ。大体、おめえを殺すつもりなら、こんな真っ昼間に丸腰でおめえの前に現れたりしねえよ。とにかく、付いてこい。もしそれでも、俺が恐ええって云うなら、銃を持ってきてもかまわないぜ」
 利家はそう云って、孫市を小馬鹿にするように鼻でせせら笑った。利家に馬鹿にされた孫市は、激しくムッとした。
 そこまで云われて銃を持っていたりしたら、それこそ男の沽券に傷が付く。
 孫市は急いで家にとって返し銃を置くと、もうずいぶんと先を歩いている利家を小走りで追いかけた。


利家に追いついた孫市は、利家の横に並び歩き始めた。
 孫市は、利家とこうして肩を並べて歩く日が来ようとは、夢にも思っていなかった。
 だが慶次から利家のことを時々聞いていた孫市は、その存在が以前から気になっていた。それは利家が、信長の腹心の武将だからというだけではない。孫市は、慶次が「叔父御」と云う時の声の響きに、懐かしく、どこか切ないような甘さを感じることがあった。
 その慶次の声から、今の利家と慶次の関係がどうであれ、以前は仲が良い叔父と甥であり、慶次にとって利家は、非常に大切な人であっただろうことが、孫市には容易に察せられた。
 そして何と云っても利家は、孫市の知らない、幼少の頃、少年の頃の慶次を良く知る人間である。慶次に関わるすべてが興味の対象だと感じている孫市の胸に、一度利家と話をしてみたいという欲望が湧いてくるのは、至極当然のことであった。
 そんな理由から、ついつい孫市は、まるで観察でもしているかのように、利家をじろじろ横目で眺めてしまう。孫市よりわずかに背が高い利家の顔は、孫市のほぼ真横にあって、少し脇を見やると利家の顔が窺えた。
 初めて間近で見る利家の顔は、思いのほか整ったものであったので、孫市は驚いた。
 厩の側で利家と話しをしていたとき、利家の顔がよく見えなかったのだが、そのがさつな話し方や声色から、整った顔の男という印象を受けなかったのだ。
(へえ〜、ちょっとばかし年は食っているが、綺麗な顔立ちをしているじゃないか。こりゃあ信長から気にいられたのも、武術に優れているからってだけじゃないような気がするな・・・・)
 孫市がそんなことを思いながら信長と利家の関係を想像していると、ふいに利家が
「おめえ、さっきから俺の顔をじろじろ眺めてニタニタ笑いやがって、何を考えている?」
 と凄んだ声で云って来たので、孫市はドキリとした。
 疚しいことを考えていた孫市は、少し狼狽してしまった。
「い、いや、そんな大したことを考えていたわけじゃない。それより、一体どこに行くつもりだ。もう随分と歩いている気がするが・・・」
 孫市はなんとか誤魔化そうと、慌てて話を違う方向へ持って行く。
 そんな孫市の顔を、利家はしばらく怪しむような視線で睨んでいたが、やがて孫市から目線を外し、目の前に見えてきた小高い丘を指さした。
「あそこにある料理屋に、おめえを連れて行こうと思ってな。京の市街から離れているこの辺りには、鄙びたような店しかねえが、あそこはなかなか良い店で、慶次郎に用があってここに来たときは利用している」
 利家が指さした方を見ると、なるほど確かに丘の上に一軒の家屋が建っていた。
 こぢんまりとした地味な庵という感じの建物であるが、雰囲気は悪くなさそうに見えた。
 だがこの時孫市は、利家が云った言葉の中に何か違和感を感じ、店のことよりも、そちらに気を取られていた。
 そして少し考えた後、孫市は、
(ああ、そうか)
 と気づく。
 利家の云った「慶次郎」という呼び方に違和感を感じたのだ。
 孫市の知る限り、慶次を「慶次郎」と呼ぶ者は皆無であった。自分も含めて、皆、慶次のことを慶次、慶次殿、慶次様と呼ぶ。だが慶次の名は、正しくは「慶次郎」であるはずだ。
 その名を至極自然に口にする利家を見て、自分には永遠に立ち入ることができない叔父と甥の絆を感じ、孫市は利家に猛烈に嫉妬した。
 孫市が、酷く不愉快な気持ちで利家の顔を見ると、利家はふいに立ち止まり、孫市の頭からつま先までじろじろと眺め始めた。そして孫市の側で、鼻をひくつかせて臭いまで嗅ぎ、盛大にしかめっ面をした。
「それにしても、おめえのその格好はひでえな!どう見ても売春宿からたたき出されて、慌てて逃げてきたお間抜けな男っていう風情だぜ。しかも身体から、ひでえ臭いがぷんぷんすると来たもんだ。おめえ、湯で身体くらい拭かなかったのか?ああ、くせえ、くせえ!」
 利家はそう云って鼻をつまみ、手で顔の前を扇いだ。
 それを見た孫市は、思わずカッとなった。
「俺だって好きでこんな格好をしているんじゃねえ!大体、慶次と気持ちよく寝ていた俺を、無理矢理大声で起こして、こんなところまで勝手に連れてきたお前にそんなことは云われたくないね!」
 利家に対する嫉妬も相まって、孫市は利家に噛みつかんばかりの勢いで叫んだ。
 だが孫市がそういい終えるや否や、利家の身体がわなわなと震え始めた。そして、それまで皮肉じみた笑い顔で孫市を見ていた利家の顔が、突如怒り狂った修羅のような表情に豹変した。
 そのあまりの表情の冷たさに、孫市は思わずゾッとなった。
 だが孫市は、自分の言葉がなぜ利家をそこまで激昂させてしまったのか、さっぱり分からなかった。
「慶次と気持ちよく寝ていた俺を、だと?」
 そう云った利家の声は、明らかに怒りを押し殺している声色で、凄まじい冷酷さがあった。
 孫市は、背筋がひやりとするような恐怖を感じた。
「慶次と気持ちよく寝ていた俺を、だと?」
 利家はもう一度同じ台詞を云い、孫市を憎しみで満ちた目でじっと見つめる。
「昨夜、俺は、達吉から慶次郎とおめえが同衾しているっていう話を聞いてな。俺はその時、おめえを心の底からなぶり殺しにしてやりてえと思ったぜ。だが俺は、その気持ちを押し殺してここまで来た。それもすべて慶次郎を救うためだ。しかたねえ、と思ってな。だがおめえは、無神経にも俺をわざと怒らせるようなことを口にした。この怒りは、ちょっとやそっとじゃ治まりそうにねえぜ」
 利家はそう云って、孫市を射殺すような鋭さで睨んだ。
 孫市は、利家から炎のように激しい憎しみを感じ、思わず震え上がった。だがその恐怖をねじ伏せて、言葉を切り出した。
「慶次の叔父であるお前にとって、甥がよりによってお前の敵である男と寝ているなんて確かに面白くない話だよな。だが俺には、なぜお前がそこまで憤激しているのか全く解らねえな。それにお前は、わざと俺がお前を怒らせたと云ったが、俺は全くそのことも解らねえ。今だって、お前がなんでそんなにも怒っているのか解らねえんだ。その俺が、お前をわざと怒らせることができるわけないだろ?」
 孫市がそう云うと、利家は驚いたように目を大きく見開いた。そしてしばらく考え込むような仕草をしていたが、再度、孫市をじっと見据えた。
「では、おめえは慶次郎から話を聞いてねえんだな」
「・・・・・話?・・・・話って一体なんのことだ?」
 孫市がそう答えると、利家は目を微笑ませながら、ふっと息をつくように笑った。そして
「・・・・慶次郎」
 とささやくような声で呟いた。
 利家を取り巻いていた険悪な空気が、急速に和らいでくるのが分かった。