虎ノ尾ヲ践ム10
利家の周りの険悪な空気が、和らいでくる光景を見た孫市は、利家の云った「話」が何のことなのか、酷く気になった。
「さっきいっていた「話」のことだが・・・何のことか訊いてもかまわないか?」
知りたい欲望を堪えることができなかった孫市は、利家に懇願するような口調で云った。利家は、そんな孫市を見てにやりと笑い、
「話?・・・さあて、俺には何のことか皆目解らねえな」
とうそぶいた。
あからさまにしれっとした態度ですっとぼける利家に、孫市は無性に腹が立ったが、それでも諦めずに懇願し続けた。
すると利家は、
「そこまで云うなら、教えてやらねえこともねえが、おめえのためにも、俺は聞かねえほうが良いと思うぜ」
と含みありげに答えた。だが、そう云われるとますます知りたくなるのが人間の心情というものだ。
「それでも、俺はやはり知りたい」
孫市は尚も食い下がる。
そんな諦めが悪い孫市を利家は呆れかえった顔で見ていたが、やがて大きく息を吐いた。
「それじゃあ話すが、その前にこのことを絶対、他言しねえと約束してくれ。それから俺がおめえにこのことを話したということを、慶次郎には何があっても絶対云うなよ。もしかしたら、慶次郎がおめえにこのことを自ら語る日が来るかもしれねえ。ま、俺は永遠にその日が来て欲しくねえがな。その時も、おめえはこのことを、今初めて聞いたというふりをしろよ。おめえ、絶対約束できるか?」
「俺は絶対、約束する。誰にも他言しない。俺の心に閉じこめて、墓場まで持って行く。だから教えてくれ!」
孫市がそう懇願すると、利家は意を決したように頷き、こう孫市に云った。
「俺と慶次郎は長い間、法度の間柄にあった。そう云えば、分かるだろ?」
「・・・・・申し訳ないが、分からない」
孫市が首を傾げながら答えると、利家は冷たい視線で見た。
「孫、おめえ、脳味噌足りてるのか?」
孫市はその利家の言い草に、むかっ腹が立ったが懸命にそれに堪えた。
「脳味噌の足りねえおめえには、はっきりいわねえと通じねえようだ。俺と慶次郎は長い間、同衾する間柄にあった。こう云えば、さすがのおめえにも、分かるよな?」
利家はそう云って、皮肉めいた笑みを浮かべた。
「お前と慶次が、同衾・・・・えええっ──!!お前と慶次が同衾!だって、お前ら、叔父と甥だろ?それが同衾?!嘘だろ?!お前、慶次から俺を追っ払うために、悪い冗談を云っているんだよな?なあ、おい!本当のことを吐け!」
孫市は利家の陣羽織を掴み、もの凄い剣幕で叫んだ。
「だから俺は真実をいっているんだ。それを信じるのも、信じないのもおめえの勝手だがな」
そういった利家の顔は真剣そのもので、信じたくはないが真のことを云っているように思えた。
孫市の頭に、ガーンと強く殴られたような衝撃が走った。
「だから俺は、おめえのためにも、聞かねえほうがよいと云っただろ」
衝撃のあまり、呆然と立ちつくしている孫市を見飽きた利家は、この馬鹿、さっさと正気に返ってくれねえかな、と思いながら云った。
利家は当初、この話を孫市に話すつもりなど毛頭なかった。利家と慶次が同衾する関係にあったことは、利家の親友、丹羽長秀以外は知ることのない、三人だけの極秘事であった。
いくら孫市に懇願されたからといっても、軽々しく話して良い事ではない。
だが、それでも利家が孫市に話してしまったのは利家の心の奥底に慶次を寝取った孫市を威圧したいという欲望があったからに他ならない。
利家が最後に慶次と同衾したのは、四年前、慶次が二十一の時である。
それ以来、慶次と一度も寝ていないが今だに慶次を愛していた。
「さあてと俺はこんな話をするために、今日ここに来たわけじゃねえんだ。そろそろ本題に移らせてもらうぜ」
利家はそう云って、道端に転がっていた大きめの石に腰を掛けた。
料理屋に行って孫市と話をしようと思っていたが、今やその気はすっかり削がれてしまっていた。
だが、衝撃のあまり利家の話を聞く余裕を無くしていた孫市は、利家の言葉など聞いておらず、未だに利家と慶次のことをぐるぐると考え続けていた。
「・・・なあ、一つ聞いて良いか?」
次第に我を取り戻してきた孫市は、利家に訊ねた。
「ああ、いいぜ」
利家は、この馬鹿やっと正気を取り戻したか、と思いながら孫市を見つめる。
「お前、俺に『では、おめえは慶次郎から話を聞いてねえんだな』と訊ねて、俺が、お前と慶次が同衾する間柄にあったことを知っているかどうか確かめたよな。それで、慶次がその話を俺にしていないことをお前が知ったとき、お前、すごく嬉しそうな表情をしただろう?あれは、どうしてなんだ?」
「ああ、あん時のことか・・・・」
利家はそう云って、また柔らかく微笑んだ。
「慶次郎は、もうずっと以前に俺と交わした約束を、未だに律儀に守っていると知って、思わず嬉しくなってな」
「お前と、交わした約束?」
「ああ。慶次郎は俺と初めて同衾した時、こう云った。『叔父上、俺はこの先、どんなことがあっても、叔父上と同衾したことを、決して誰にも話さない』とな。だがその時、俺は慶次郎にこう答えた。『お前がこの先、今お前が俺を好きだ思っている以上に惚れた相手と出会ったとき、そいつにだけは俺とのことを話してもかまわねえ。心底惚れた相手に自分の過去を隠し通すことは、とても辛いことだからな』と。そしたら慶次郎は『分かった。約束する』と云ってな」
「それは、つまり、慶次は俺のことを・・・・・」
(慶次は俺のことを、心底好きなわけじゃねえってことじゃないか!)
孫市は新たな衝撃を感じ、くらりと目眩がした。
孫市が自分の気持ちを慶次に告白したのは、つい昨日のことだ。冷静に考えてみれば、その自分が、慶次から心底惚れられているわけなどない。だが、そうは思ってもこのことは孫市にとってかなりの衝撃であった。
「つまり慶次郎はおめえのことを、それほど思ってねえということだろうな。それを知って、俺は本当に嬉しかったぜ。俺はてっきり、慶次郎とおめえはそういう恋仲になっちまったのかと思って、猛烈に嫉妬したからな。まあ、よく考えてみれば、慶次郎と知り合ってそれほど時が経たねえおめえが、慶次郎と俺とで築いた十年以上の絆をひとっとびに飛び越えて、慶次郎から心底惚れられるわけがねえよな」
利家はわざと孫市を心を掻き乱すように、ちくりちくりと云った。
苦しんでいる孫市を見るのが、楽しくてたまらない。
ざまあみろ、とほくそ笑む。
(俺だって昨晩は、嫉妬で苦しんで眠れない夜を過ごしたんだ。せいぜいおめえも苦しみやがれ!)
そう思った利家は、さらに孫市に追い打ちを掛けるように話を切り出した。
「・・・・さて、そろそろ本題に入らせてもらうぜ。手短に用件を云う。おめえ、慶次郎と別れてくれねえか?おめえが慶次郎の側にいると、殿から有らぬ誤解を受けることになる。それがどういうことか、おめえにも分かるはずだ。おめえは、慶次郎に惚れているんだろ?惚れているというなら、慶次郎のために、身を引いちゃくれねえか。おめえだって、慶次郎を死なせたくないだろう?・・・・それも慶次郎は、どうやらおめえをそれほど好きではねえようだしな。おめえだって、慶次郎とつき合う限り、殿に必要以上に警戒されて、余計に危ない目に遭うぜ。おめえをそれほど好いてねえ者のために、わざわざ命を危険に晒すことはないんじゃねえか」
利家の直言は、さながら矢のように、孫市の心に深く突き刺さった。
(俺だって、慶次を死なせたくなどない。ましてや大して好きでもない俺のために、慶次の命を危険に晒させるなどもってのほかだ。慶次と離れたくないと思うのは、俺の勝手なわがままにすぎない。やはり俺は、慶次の側から身を引いた方が良いのではないだろうか)
そう思った孫市は、この時、慶次との別離を苦慮していた。
だが、孫市が挫けそうになったその瞬間、
『俺は誰かの指図でお前との付き合いを止めるつもりはない』
ときっぱり云った慶次の言葉が、孫市の脳裏をかすめ、穏やかな感情が孫市の心に満ちてきた。
孫市は毅然と顔を上げ、沈黙したまま、長い間、利家をひたっと見つめ続けた。
「俺は絶対負けない」
孫市は呟くようにいった。
「俺は誰かの指図で、慶次と別れたりしない。慶次もそう云ってくれた。だから俺は、あいつが自ら俺との付き合いを止めたいと思わない限り、あいつと絶対別れたりしない」
利家は驚いた表情で、そんな孫市を見ていた。
利家はこの時、孫市の意外なしぶとさに唖然としていた。孫市の表情が一瞬、曇ったとき、利家はてっきり孫市が慶次から身を引く覚悟をしたのだと思い込んだ。
だから孫市が自分をまっすぐ見つめ、
「俺は負けない」
と呟いたとき、利家は正直愕然となった。
「じゃあ、おめえは、おめえの所為で慶次郎が死んでもかまわねえと、こう云うんだな」
だが、利家は尚も孫市の心を変えさせようと、孫市を非難するような口ぶりですぐさま強圧を加えた。
「俺は、絶対、俺の所為で慶次を死なせたりしない」
「ほう。おめえのその自信は、一体どこから来るのか是非とも伺いたいものだ」
利家はじろりと孫市を睨んだ。
孫市は唇を噛み、やがて意を決したように利家を見据えた。
「俺はいざとなったら、それしか方法がないというならば、俺は雑賀衆を抜けるつもりだ」
「な、なんだと!」
驚きと焦りのあまり、利家はどもった。
利家は、まさか孫市がこんなことを言い出すとは思っても見なかったのである。
「おめえは、雑賀衆の頭目だろ?そのおめえが雑賀衆を抜けるってのは、雑賀衆に対する裏切りじゃねえか!」
「ああ、そうだな」
孫市はあっさりと云った。
「ああ、そうだな、って、おめえ!」
「確かに、雑賀衆の頭目である俺が雑賀衆を抜けることは、雑賀衆に対する裏切り行為だ。だが、雑賀衆の頭目という地位に縛られるあまり、自分が惚れた相手と別れなければならないとしたら、それは自分の心に対する裏切り行為とは云えねえか。どちらを選ぶかは、俺の自由だろ?それに慶次と俺が手を組めば、どこの藩にだって仕官できるさ。まあ、食って行くには困らないぜ」
孫市はさらりと云ってのけた。
「だが、おめえ、それでいいのか?」
「ああ、俺はそういう人生も良いと思っている。雑賀衆の頭目という人生だけが、俺に与えられた生き方じゃねえ。それに雑賀衆には優秀な人材が沢山いる。雑賀衆の頭目なら、他の誰かに任せることだってできる。だが慶次の側で生きることだけは、他の誰かに任せられない。任せたくないんだ」
「おめえ、本気か?!」
利家は、悲鳴のような叫び声をあげた。利家は孫市に対して、恐れのような感情を抱いていた。
利家は正直、孫市は存外簡単に慶次と別れることを承諾するだろうと考えていた。いくら孫市が慶次に惚れていると云っても、一体どれほどのものものか、と疑ってもいた。
だが、孫市の思いは酷く強靱で、たかが一人の男のために地位や名誉家を捨てようとしている。そんな真似、俺にはとても出来ないと、利家は思った。
(慶次郎とこいつは、あまりに似ている)
利家の胸に孫市に対する嫉妬と羨望の感情が、波のように押し寄せてきた。